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【アート覚書き】サイ・トゥオンブリーの写真
連日の日本人選手の活躍からパワーをもらいつつ、秋のシーズンに向けてこの夏休みは練習に明け暮れていますが、一昨日は千葉・佐倉の川村記念美術館へ息抜きに出掛けました!
Cy Twombly Photographs at the Kawamura Memorial Museum of Art
サイ・トゥオンブリーの写真 〜変奏のリリシズム〜
5年前に亡くなった、20世紀を代表する芸術家が60年間に渡って撮りためた写真のなかから100点とドローイングや版画、彫刻数点ずつの展示。作者自身自らを、ロマンティックな象徴主義者と思っているとの言葉が表すように、ノスタルジックな色調と風合いを用い、日常のさりげない一コマや、身近にある花々、野菜、布生地をデフォルメして、ギリシャ彫刻やまるで一枚の絵画のように見立てている。大人の落書きのような版画からは既定概念を超えたユニークな発想、彫刻には普遍的なモチーフを求める思想が存在する。様々な角度から自身の探すものを追い求める純粋さを見た気がした。
この美術館に来たのは2度目で、前回はマーク・ロスコ展だった。その時は大きな展示室だったため体験できなかったロスコ・ルームにも今回足を踏み入れることができた。
何という贅沢な空間だろう!巨大な7枚の絵に囲まれて、しかも低い位置に飾られているため観る人とまさに等身大。
ロスコの絵をこのように体験できるのは世界でも、ロンドン・テイトギャラリーとヒューストンのロスコ・チャペルとここ佐倉の美術館の3ヶ所のみ。近くに住んでいれば毎月通えるのになぁ…(笑)
他にシャガールやフジタの貴重な作品や、最近ハマっている酒井抱一の屏風絵にまで出会えて、心が満たされた午後でした。
〔facebookパーソナルページより転載〕
【コンサート覚書き】ミハイル・プレトニョフの世界
ミハイル・プレトニョフの世界
Mikhail Pletnev – Recital & Concerti@Tokyo Opera City Concert Hall
先週と今週にかけて、プレトニョフの演奏会に3度通ったのであくまでも個人的な感想を備忘録として…
協奏曲の夕べでは東京フィルをバックに前半にスクリャービンのピアノ協奏曲(プレトニョフ編)、後半にラフマニノフのピアノ協奏曲第2番という濃厚なプログラム。スクリャービンのロマンティックなピアノの冒頭部分、音がなんと豊かに会場に飛んでくることか、1番音が飛んでくる場所に座っていたせいもあるかもしれないが、その響きはどこか異質な感じ。まるでマイクが入っているようなボリューム感で、ビロードのような布をまとっているというか、管楽器的な、空気を含んだ音。
彼の演奏ではお決まりの、普通は熱が入るようなところはわざと避けて、でも彼にとって“此処ぞ”というところに倍音を豊かに響かせて色彩濃く、臨場感に溢れる音を紡ぐ。楽器を熟知しているので、打鍵は最小限の動きに凝縮する。
第2楽章のゆらめきはテンポ設定が絶妙なのでその浮遊感はハンパなく、音色の扱いにしても歌い方にしても痒いところに手が届いた演奏。あまり演奏されない曲のせいかプレトニョフ編曲だからか、度々オケが薄すぎて心配になったのだが、あとから聞いたところによると、オリジナルに比べるとすごくオケの音が少ない上に“全体的にオケはピアニッシモで薄く演奏してほしい”と本人からの指示が入ったそう。実際ソロパートが休みに入ると即、腕組みをして手持ち無沙汰な仕草。(こういう人がソリストでは指揮者もさぞやりにくいだろう…)
そして第3楽章の第2テーマ、今から来るよと聴きどころを示してくれるかのように客席に合図する余裕の演奏。その調性間の色合いの違いには鳥肌が立った。
プレトニョフのアレンジで最後の二つの音はオケと共には弾かず、ピアノだけで。低音の鳴らし方、鈍い鐘の音はこのコンチェルトの締めくくりに相応しい、確信に満ちた芸術的な音だった。こういった演奏に触れられる機会が少なくなっているだけに、非常に貴重な時間だった。
ソロは、同じプログラムを渋谷区のさくらホールとオペラシティで連日聴いたので、その違いも交えて…
オペラシティのバッハ:前奏曲とフーガイ短調は天井の高いこのホールならでは、まるで教会でオルガンを聴いていると錯覚するほど豊かな鳴り様で、深い祈りの音楽。本人の集中度も前の晩とはかなりの差があったようだ。曲が進むにつれて楽想がどんどん奥まって行き、息をのむようなピアニッシモが続くので、終わった時は客席の誰も拍手ができないほどだった。
グリーグのソナタでは、どちらの会場でもかなり漠然とした印象で、響きを重視するあまり曲の形がはっきりせず、どこか取り留めもなく進んでいく。2年前にチッコリーニが最後の日本公演で弾いた演奏の新鮮さに比べると、なぜ今この曲を弾くのかが伝わって来ない。それに比べると次のノルウェー民謡による変奏曲形式のバラードは、プレトニョフの目指す重たく暗い世界感とマッチするようで、第7変奏のコラールや次の散文的な変奏、曲尾の深淵な暗さなどは特に説得力が増して、オペラシティでは非常に聴きごたえがあった。打鍵を巧みに操って低音をより低い音程で鳴らし、此処ぞという場面が来ると極限まで拡大・強調する。枠を外して自由になるのでレチタティーヴォのように語り、まるで今そこで生まれた音楽のよう。
後半はモーツァルトソナタを3曲。
ニ長調(K.311)は明るく最初の音にエネルギーを集めるロシア的な奏法を多用し、第2楽章も即興的、刹那的で美しい。ハ短調では短調の内に秘めたくすぶりを精密にコントロールされた打鍵から生み出し、次のヘ長調(K.533)ではもはや長調や短調という次元を超えて、、、第2楽章でまたもやその瞬間がやってきた。今までに聴いたことのない、モーツァルトを聴いているとは思えないような現象が起き、まるであの世へ連れて行かれそうな短調のアルペジオにこちらの生気が吸い取られるよう。
そのあとで長調に解決しても、そして明るいはずの第3楽章が来てもその精魂は報われず、あちらの岸から娑婆世界を振り返っているかのようで、モーツァルトを聴いてこんなにぐったり、重い気分になったのは初めてだった。それくらいその世界観が完成されていたということだろう。まんまと策略にハマってしまった。やはりすごい才能!
アンコールのラフマニノフがまた素晴らしく、10月にはオール・ラフマニノフのリサイタルだそうですよ、みなさん!
〔facebookパーソナルページより転載〕
【コンサート覚書き】トランス・シベリア芸術祭 in Japan
トランス・シベリア芸術祭 in Japan
Trans-Siberian Art Festival
ヴァイオリニスト ワジム・レーピンが監督を務め、2年前から彼の故郷ノヴォシビルスクを中心に行っているフェスティバルの引越し公演、全部で3回の演奏会のうち2日足を運んだ。
まず初日のプリマ・バレリーナ スヴェトラーナ・ザハロワ&レーピン夫婦の共演@サントリーホール。
レーピン率いる弦楽アンサンブルと、ザハロワのソロ、あるいは男性パートナーとのダンス(弦楽アンサンブルが舞台の左隅で伴奏)、音楽とバレエ交互に焦点を当てる形になっている。
レーピンのヴァイオリンはその大柄な体格のごとく大地のような包容力があり、奇を衒わず、柔軟な身体を使って無理なく自然に、まるで息をするように奏でているのが良く、もう何度となく聴いている。だが今回は、ザハロワの圧倒的な存在感に支配されてしまった。その立ち姿は何と力に満ちていることか、彼女が踊っているときはレーピンのヴァイオリンは耳に入らないも同然だった。
手足が人より特別に長く、そして細すぎるくらい細い。その特性を頭と身体で操り、どう見られているかを熟知していて、それを活かしきる。ライトが当たった瞬間(あるいは当たる前からなのだろう)にそれぞれの配役がのり移るかのように成り切っているので、否が応でも引き込まれて、クライマックスの“瀕死の白鳥”では後姿だけで鳥肌が立った。バレエに対するイメージが変わった気がした。
ほか、ライティング演出あり、日本語のセリフを含めた小芝居もあり、休憩なしの80分はあっという間だった。
もう1日はレーピン&マイスキーの協奏曲の夕べ@東京オペラシティコンサートホール。
日本フィルのサポートでレーラ・アウエルバッハのヴァイオリン協奏曲の日本初演とチェロはロココ主題の変奏曲、そしてブラームスのドッペルコンチェルトという豪華なラインナップだった。
ちょうどこの日が日フィル創立60周年の誕生日だそうで、ドッペルコンチェルトの前に指揮の広上さんが、2人が今日の演奏を誕生日に捧げたいと言っていることを客席に伝えてくれた。
コンサートの前には、オペラシティ近くの損保ジャパン日本興亜美術館に寄り、フランスの樹の風景を集めた展示を鑑賞。
緻密でいてセンスのあるジョルジュ・サンドの水彩画やピサロのエッチングなど、梅雨の合間の息抜きができました♪
〔facebookパーソナルページより転載〕
【アート覚書き】畠山記念館の抱一
畠山記念館の抱一
〜光琳とその後継者たち〜
Hatakeyama Memorial Museum of Fine Art in Tokyo
今日は仕事が早く終わり、畠山記念館へ。
瀟洒なマンションや邸宅が多い白金台の一角に、緑深い庭園に囲まれた美術館がある。荏原製作所の創業者による日本美術のコレクションを展示する記念館で、苑内にはお茶室も点在している。モミジの木が生い茂り、秋の紅葉の季節も良さそうだ。
今回のお目当ては一枚の酒井抱一の画。
その並びにある、俵屋宗達の「蓮池水禽図」はまるで抽象画のようで、京博にある国宝指定の同名の図にくらべると墨の濃淡や水鳥の動き感が劣るのだろうが、それでも迫力があり、背景との境目をぼかしたたらし込み技法と、大胆な曲線のボリューム感、デフォルメ感に圧倒される。
そして抱一の「水草蜻蛉図」はその宗達からの墨絵の伝統を受け継ぎつつも、菖蒲の花の濃い青や葉の透け感のある緑、蓮の花やガマの穂先にほのかな黄色を見事に配置して、細部に渡って隅々まで手入れの行き届いた繊細な筆使いで、これまた彼の他の作品同様デザイン性が非常に素晴らしい。
葉の直線と曲線の対比、向こうにあるガマの穂のラインで空間に広がりを持たせ、左端の菖蒲にさり気なくトンボを止まらせて、奥には丘と木々まで見据える。一枚の画に、観るものを飽きさせない心憎い演出が施され、畳に正座して、または立ち上がって近づいてとずっと眺めていられた。
この絵も実際は写真のような3枚連作の左部分で、他にも「十二ヶ月花鳥図」がコレクションにあるようだ。抱一生誕250年だった5年前にはそれらが公開されたようだけれど、見逃した人のために再び一挙公開してくれることを切に願う、、、
見終わってもまだ陽が高いのはこの季節ならではで、嬉しいですね。
〔facebookパーソナルページより転載〕
【アート覚書き】ジョルジョ・モランディ 〜終わりなき変奏〜展へ
春休み最後のおたのしみ☆
ジョルジョ・モランディ 〜終わりなき変奏〜展へ
Exhibition of Giorgio Morandi “INFINITE VARIATIONS”@Tokyo Station Gallery
東京駅丸の内北口改札を出てすぐの、重要文化財の赤レンガを背景に上手く利用したギャラリー。
2フロアに約100点の作品数は観るのにちょうどいい。
モランディの絵は初めて観たが、なんだろう、この満ち足りた感覚は。変化がないと言えなくもないこのスタイルに、大好きなマーク・ロスコの絵に抱くのと似た興味が沸々と湧いてくる。
絵の具の量感、たとえば筆の運びが見えるものとそうでないものだったり、その質感になんとも言えない重量のようなものを感じる。そしていろいろな角度、たとえば真横から、あるいは少し上からと見方を変え、光と影の関係や静物の大きさ、配置も色々と変えながら→横並びだったり奥行きを出したり、あるいはお気に入りのジョウロのような主役がいたりいなかったり。
色合いは極めて穏やかなグレー、ベージュ、クリーム色、薄い茶色で、黒や青、緑などの差し色がまた柔らかな風合いで使われている。
日常の、何気なくさりげないものを用いて、キャンバスの中に絶妙なバランス、調和、均整を取っている。
様々な角度から自身の奥の方を見つめながら、繰り返し繰り返し同じモチーフを描く。「重要なのは、ものの深奥に、本質に触れることです」という画家の言葉が響いてくる。
留学中何度も通ったボローニャに美術館があり、モランディの家も公開されたそうで、イタリアに行く楽しみが増えて嬉しい。
東京駅を通った際はぜひみなさん訪れてみて下さい!
〔facebookパーソナルページより転載〕
【MOVIE】R. シュトラウス ヴァイオリンとピアノのためのソナタ より 第1楽章
R. シュトラウス ヴァイオリンとピアノのためのソナタ より 第1楽章
演奏:柴田欽章(ヴァイオリン)・三宅麻美(ピアノ)
2016年2月27日 韓国・光州(クァンジュ) Kumho Art Hall
【コンサート覚書き】ティル・フェルナー シューマンプロジェクト
今年度最後の試験審査任務を終えて、久々にドイツリートを聴きにトッパンホールへ。
Till Fellner Schumann Project with Mark Padmore@Toppan Hall, Tokyo
シューマン:5つの歌曲 作品40
ハンス・ツェンダー:山の空洞の中で〜ジャン・パウルの詩による2つの歌(日本初演)
ベートーヴェン:遥かなる恋人に寄す
シューマン:詩人の恋
このプログラムを見るなり惹かれて、すぐにチケットを入手した。
歌手パドモアは、なんて柔らかで伸びやかな声の持ち主だろう。古楽合唱の発声なのだろうか、抑揚を自在につけられるので、歌詞に合わせて非常に臨場感のあるロマンティックな表情を随所にともなう。
正統派との呼び声が高いフェルナーのピアノは初めて聴いたが、とても知的でチャレンジ精神に溢れている。
新曲では、演奏前にピアノの弦にピアニスト自身が細工をし、譜面台横に無造作に置かれたiBookを操作して、マイクの入った内部奏法音が場内に流れた。
そのiBookが直後のベートーヴェンでもその場にあったので、かなり違和感を感じたのだけれど、ベートーヴェンの出だしを歌い出してすぐ、sorryと言って歌手を止めたのには驚いた。新曲の際に閉じたピアノの蓋をまた開けるのを忘れたのだ。
それはピアニストが忘れたのか、係りの人が忘れたのかはわからないが、一度始まったものをすぐさま止めることが果たしてその場の最善策だっただろうか、、、
日本語で「すみません」と言って雰囲気は少し和ませたけれど、あきらかに止められたときの方が歌手のノリが良かった。ああ、この出だし!とこちらも曲の世界に入り込んだ矢先だったので、本当に驚いた。そのまま弾いて欲しかった。
それでもベートーヴェンでは二人の語り口が1つの世界観を創り、クライマックスの感動へ導いてくれたが、後半のシューマンは学生時代に聴き続けた曲だったからか、イギリス人パドモアの独特な発声が、ドイツ語が持つリズムや響きを若干崩していることが気になった。ドイツリートはやはりドイツ語自体が持つ厳格さというか、韻もさながら、発音から来る独特な篭りというのだろうか、そういうものに支配されて然るべきなのでは?と。昔サヴァリッシュのピアノでディースカウを聴いた感動には至らないのはもちろんわかっていたけれど、これは外国人にはやはり難しいものなのだろうか。他にもリートを聴いてみたくなった。
〔facebookパーソナルページより転載〕
【アート覚書き】映画「Foujita」「Pirosmani」
アートな映画を2本鑑賞
Movie “Foujita”(2015),“Pirosmani”(1969)
藤田嗣治は今までにその生涯が映画化されなかったのが不思議なくらい。もともと日本より海外での評価が高いせいだろうか、日本国籍を捨てたから?あるいは再婚に再婚を重ねているせいだろうか(笑)映画では私の想像以上に、彼の生涯の中でもパリで成功した後の16年間の日本滞在に焦点を当てていた。パリの場面では妙に現代的な撮影が気になりつつも、シャヴァンヌのタペストリーをフジタが無言で眺めるシーンや、最後に遺言のように建てた礼拝堂を映すシーンは、それだけでこの映画の価値が感じられるものだった。ちょうど国立近代美術館で、フジタの収蔵作品を一斉展示していたので観に行ったが、初めて彼の戦争画を観て、その生々しさと労力に圧倒された。映画よりも間近で観る絵の方が、まさにそれに命を懸けていたということを伝えていた。
ピロスマニは、7、8年前にDVDを観てその素朴なほの暗さに即座に魅了されたのだけれど、それをデジタルリマスター版しかも原語のグルジア語で再公開するというので、もう一度これを大きなスクリーンで観たい!と前売り券を買ったのだがなかなか行けず、最終日の今日すべり込みセーフ^^;
まず、冒頭からこの画家の人生を物語るようなオルガンの暗い色調にやられてしまう。美しいグルジアの風景と、どっしりとした筆使いの暗くも温かみに満ちた絵。人が何をしようと、人に何と言われようと意のおもむくままに行きる。人に愛されながらも自ら孤独を選び、さすらいながら絵を描いてそして死んでゆく。彼の絵をナマで観たい!
〔facebookパーソナルページより転載〕
【アート覚書き】パウル・クレー展
夏休み!一昨日、宇都宮の県立美術館へ、パウル・クレー展を観に出掛けました。
Visit at the museum in Tochigi “PAUL KLEEー Spuren des Lächelns”
広大な緑地内にある、落ち着いた美術館。階段もなく、非常に贅沢な作りになっており、観る前の気分を演出してくれる。
そしてその贅沢な空間は作品と作品の間隔にも繋がり、作品を生かしたライティングがまた良い雰囲気を作っていた。
ドイツ留学中にも事ある毎に観たクレー作品だが、まとめての展示を鑑賞するのは初めてで、クレーの謎に迫る展示になっている。
線とは、図形とは、色彩とは、枠とは…様々な視点で考えさせられる。
晩年、皮膚の病気を堪えながら今までにない数の作品を生み出したそうだが、シンプルな鉛筆書きの、愛らしいフィギュアに何とも言えない感情が湧いた。
そのあとは…宇都宮といえばの餃子食べ比べ。15種類!
〔facebookパーソナルページより転載〕