【MOVIE】ショスタコーヴィチ 24の前奏曲より5曲
ショスタコーヴィチ 24の前奏曲 Op. 34 より5曲
演奏:三宅麻美(ピアノ)
2018年1月4日 辛島輝治先生傘寿記念演奏会
ショスタコーヴィチ 24の前奏曲 Op. 34 より5曲
演奏:三宅麻美(ピアノ)
2018年1月4日 辛島輝治先生傘寿記念演奏会
この4日間で3回もサントリーホールへ通ったので、備忘録として。
◆10/20 ポゴレリッチのピアノリサイタル
Ivo Pogorelich Piano Recital
クレメンティの落ち着いたテンポの中での軽さ、ショパン バラード3番の奥行きと煌めきは流石だったが、主としてテンポが遅く、左手の強拍にやたらと意識を向けたハイドン、ベートーヴェンや、とてもピアノの音とは思えない爆音続きのリストエチュードやラヴァルスには、聴いている方が疲れ果てて体力を奪われ消耗する。これを本人は超真顔で弾いていることを考えると、もっと年老いて彼の体力が衰えた頃になってからまた聴いてみたいと思うのだった。
ちなみに当日は彼の59歳の誕生日で、会場全員で歌のサプライズが仕組まれた。
◆10/22 マティアス・ゲルネの冬の旅
Matthias Gerne Winterreise
つい先日同ホールでリサイタルを行った93歳のメナハム・プレスラーも聴きに来ていた公演。本来、クリストフ・エッシェンバッハが伴奏を務めるはずが、残念ながら手の故障で代役のマルクス・ヒンターホイザーに。
やはりゲルネは声が素晴らしく、それぞれの場面を巧妙に描写した声色の変化が非常にドラマティック。伴奏のヒンターホイザーもその声色を壊さないように奥へ奥へと入って行く。
ただ、響き重視の歌い方なのでドイツ語の律動はあまり感じられない。ドイツ人が歌っているにもかかわらず、ドイツリートとしての説得力に少々欠けているように感じたのは、以前聴いた時と同じだった。そういう意味ではシューベルトより、シューマンの方が彼に合っているかもしれない。
曲間の運び、頂点の定め方など曲集としての総合的な捉え方に、ザルツブルク音楽祭音楽監督でもあり多くのプロジェクトを手掛けるヒンターホイザーの手腕が見事に振るわれていた。
◆10/23 東フィル&プレトニョフ
Mikhail Pletnev&Tokyo Philharmonic Orchestra
グリンカのカマリンスカヤで楽しく始まり、ボロディンやリャードフの交響詩、そして後半はリムスキー=コルサコフのオペラ組曲を3つという珍しいプログラム。
整然とした指揮のせいかやや大人しく、もしこれがロシアのオケなら…と思うところもあったが、弦もそれぞれのセクションにまとまりがあり、管楽器の聴かせどころが随所に散りばめられ(特にクラリネットとトランペット)、細部まで見事な情景描写や場面の移ろいに素直に身を委ねて聴いた。
舞台の後方席だったので、終始ご機嫌なプレトニョフの表情が良くわかり、ロシア国民楽派の色彩やリズムに自らも楽しみながらの指揮振りだった。
〔facebookパーソナルページより転載〕
先週、用事の合間にようやく、20世紀最大の彫刻家 アルベルト・ジャコメッティ展へ出掛けた。
Exhibition of Alberto Giacometti @The National Art Center Tokyo
普通、美術館にあるジャコメッティはせいぜい一体、多くて二体だと思うけれど、大小さまざま、これだけ多くの作品が時代を追って展示されているのに驚く。順に観ていくと、なぜこのような表現に行き着くのかが非常に良くわかるようになっている。
ミュシャの時と同じように、ひと部屋だけ写真撮影可能になっているのを知り、慌ててロッカーに携帯電話を取りに行く。
スタンパ というイタリア国境にあるスイスの小さな村で生まれ、父親が画家で、幼少期からアトリエにいるのが当たり前の生活をし、父の影響で「見たままを捉える」セザンヌに憧れ、イタリア絵画、古代エジプト・中世の美術にのめり込む。
アフリカ、オセアニア、キクラデスの彫刻に興味を持ち、頭蓋骨のデッサンに励んだりもする。キュビズムやシュルレアリスムを体現したあとに放棄して、モデルを前にした制作へ行き着くが、その独特な距離感から等身大では制作できず、マッチ箱に入るほどまで小さな作品になる。
哲学者サルトルや日本人哲学者の矢内原伊作との交流など、その足跡を知ってから作品を観ると、なるほどと頷ける。
印象的な本人の言葉を以下備忘録として。
“見えるものを見える通りに捉える 到底不可能なのを知っているが自分にできる唯一のこと”
“私とモデルの間にある距離はたえず増大する傾向を持っている”
“もの に近づけば近づくほど、もの が遠ざかる”
“モデルを前に、生者を死者から隔てるまなざしをとらえることに執着した”
“ひとつの彫刻はひとつのオブジェではない
それはひとつの問いかけであり、質問であり、答えである
それは完成されることもあり得ず、完全でもあり得ない”
“絵も彫刻も詩も文学もたいしたものではない
試みること、それがすべてだ”
〔facebookパーソナルページより転載〕
一昨日なんとか時間を作り、岩波ホールへ。
巨匠アンジェイ・ワイダの遺作「残像」を観に行った。
Andrzej Wajda’s last movie “Powidoki (Afterimage)”
昨日までの公開なので滑り込みセーフ。
会場も珍しく7割方埋まっていた。
実在したポーランドの画家ストゥシェミンスキの受けた、社会主義体制からの抑圧を色濃く描き、決して迎合せず己の信ずる芸術を貫く姿勢を通して、一個人が成し得ることの尊さを教えてくれる。
画家の発する一言一言が端的でありながら非常に的を得ていて、色や動き、そして配置にこだわり抜いた映像が、重要なシーンとして印象を残す。
まさにワイダ監督の遺言のような、ゆっくりと噛み締めながら観るべき映画と感じた。
〔facebookパーソナルページより転載〕
初夏の陽気の日曜日、ラトヴィア放送合唱団を聴きに出掛けた。
Latvian Radio Choir@Musashino bunka kaikan Ricital Hall
リニューアルされた武蔵野市民文化会館の小ホールで、合唱大国ラトヴィアの精鋭グループを聴く。
前半に現代曲三曲と、後半にラフマニノフの晩祷全曲というヘヴィなプログラム。
指揮はカスパルス・プトニンシュ。
現代曲ではリゲティのルクス・エテルナが作曲家の狙いの鋭さが際立っていた。出だしからオルガンの響きを再現しているかのようだし、ソプラノ・ソロはまるでフルートの高音のように持続される。宇宙空間に放り出されたような、始まりも終わりもない世界。他にトーマス・アデスとジョナサン・ハーヴェイの曲。
ラフマニノフの傑作『晩祷』は全15曲からなり、60分を超すアカペラ合唱曲。
私自身生で聴くのは3回目で、曲の凄さとこのロシア正教のための宗教曲を日本人が歌うことにひたすら驚いた1回目、ロシアの合唱団だったのにラフォルジュルネ特有の環境の悪さが残念だった2回目を経て、今回は天井の高い小ホールという贅沢な空間なのもあって、心から楽しんだ。
この合唱団は良い意味での雑味があり、音楽と言語に共通するリズムに何とも絶妙な響きの膨らみを伴わせるので、ラフマニノフの感動的な和声がより浮き立ってこちらに届く。
そしてやはり、弦楽器を聴いても感じることだけれど、人の声の持つ響きの温かみはピアノでは到底成し得ない、真似のできないもので、その音律に触れると自然に身体が反応する。
古い教会スラヴ語が用いられているこの曲を聴きながら、つい先日観たミュシャのスラヴ叙事詩を思い出し、両芸術家の民族への強い想いを感じると、涙無しには聴けなかった。
アンコールのラトヴィア民謡がまた素晴らしく、楽譜から解放された団員の皆さんの晴れやかな笑顔とともに、心に迫る合唱だった。
帰りに深大寺に立ち寄り、名物の九割そばをいただきました。
〔facebookパーソナルページより転載〕
昨日、念願のミュシャの展覧会に出掛けました!
The year of Czech culture 2017
Alfons Mucha @ the National Art Center, Tokyo
チェコ語ではムハと発音するミュシャの展示はこれまでに何度か観たが、ポスターやカタログの表紙など、絵画というよりイラストデザインの印象が強く、はっきり言ってジッと観入るような絵には出会わなかった。だが、今回は違った。
『スラヴ叙事詩』
The Slav Epic/Slovanská epopej
パリやアメリカで活躍していたミュシャが50歳で故郷に戻り、晩年の16年を費やし、チェコの全国民に捧げた作品で、スラヴ民族にまつわる神話や歴史を題材にした、20点からなる大作。
話には聞いていたものの、展示室に入ってまずその大きさに驚く。絵というより巨大なタペストリーのようで、一枚というより壁一面という感じ。
そしてその絵を眼の前にすると、暖色も寒色も薄いヴェールを一枚まとったかのように統一された独自な色彩と、画面のどこを切り取っても完璧に描かれた筆の緻密さと、画面全体から放たれる画家の壮大な思想に圧倒され、身震いする。
スラヴの原故郷が描かれた1枚目には神話の青色が用いられ、満点の星に包まれながら、他民族の争いには加わらず、草むらに潜むスラヴ民族の原点を見る。
ちょうど私達の目線上になるように、等身大に描かれた人物のおびえた表情は、行き場のない悲しみや戸惑いと、それでも必死に耐え抜いていく芯の強さを物語っている。
スラヴの栄光が廃れていく様子を描いた2枚目の祭りの絵では、基調の色として敗北の白が使われている。
全ての絵において共通するのが、題材そのものより、その場で抱かれる民衆の感情に焦点を当てて描かれていることなので、必然的にひとりひとりの表情に目が行く。哀れな楽士や彫刻師 、それを慰める文芸の女神など、画家が模索していたであろう芸術の意義も垣間見える。
そして細部に至る描写の仕上がりが凄い。民族衣装、身に付ける装飾品、髪飾りの花々、植物、草むらや麦わらの一本までが丹精に描かれる。それまでに積み重ねたミュシャ芸術が活かされて、まさに集大成となっている。
他にギリシャ正教にスラヴ式典礼を導入した場面や、スラヴ文学の礎を築いたブルガリア皇帝、スラヴ民族の統一として描いたボヘミア王族とハンガリー王族の婚礼、スラヴ人皇帝の誕生など、その都度、民衆の想いに共感し、まるで自分もスラヴ人になったかのような感覚になる。
その感覚こそ、芸術の意義だと思うと同時に、全てを注いで作品を完成させたミュシャという一人の人間の持つ力に驚嘆する。
帰り道、魂を揺さぶられるスラヴの音楽を目一杯聴きたく、そして弾きたくなった。
来月8日までの開催です。
まだの方は是非観てください!
〔facebookパーソナルページより転載〕
L. v. ベートーヴェン ピアノ三重奏曲第7番 作品97《大公》 より 第1楽章
演奏:キム・ドヨン(ヴァイオリン)・三宅麻美(ピアノ)・キム・ジェジュン(チェロ)
2017年5月2日 韓国・光州(クァンジュ) Kumho Art Hall
ロナルド・ブラウティガム フォルテピアノリサイタル@トッパンホール
Ronald Brautigam fortepiano recital
昨日出掛けた演奏会は、来日の少ないオランダの名手が弾くとあってチケットは完売。
使用楽器は1800年頃のAnton Walterをモデルに2002年にチェコで製作されたもの。
前半はモーツァルトのソナタ2曲とロンドイ短調。フォルテピアノは音の減衰が早く、減衰時にしなりがあり打鍵も柔らかいので、優美なディミヌエンドを伴って、フレーズの終わりが少しずつ幅広になる。逆にフレーズが向かっているときはひたすらに進んでいくので、そのコントラストが強く出た演奏で、音量が出ない分、打鍵時の音がかなり聴こえ、その残響効果も考慮して音楽運びをしているように聴こえた。
独特な音の伸びはアルペジオに効果を発揮し、連続する和音の伴奏形や同音連打がメロディと同じように大きく聴こえるのは決して邪魔にはならず、むしろ主導権を握っているようだった。
しかし、後半のベートーヴェンではやはり物足りなさを感じてしまう。作品31-3のソナタ冒頭で四六の和音が来る箇所はなんとも言えない柔らかさと温かな波紋が広がるようでピアノを弾くのとは違った表現があり、悲愴ソナタやテンペストの第三楽章など疾走する曲調には合っていると感じたけれど、他はあまり集中して聴くことは出来ず、それよりもベートーヴェンの、未来を見据えた曲作りに驚嘆し、現代のピアノで彼の作品を弾けることに心底喜びを感じるばかりだったが、なかなか聴く機会の少ない音は新鮮で、興味深いものだった。
アートな映画二本立て🎦
エゴン・シーレ&バンジャマン・ミルピエ
2 movies in a day at Bunkamura Shibuya
補講や試験審査やその伴奏などで毎日稼働の週を終え、息抜きに渋谷・東急文化村へ向かう。
見たかったミルピエの開始時間までかなりあったので、まずエゴン・シーレを観た。
28歳という若さで亡くなったオーストリアの画家が、駆け出しの頃から亡くなるまでの奔放な生き方を描いたもの。崇高な芸術のためには他人の人生まで犠牲にしゆく、その確信に満ちたエゴイズムに疑問を抱く…
1時間強の待ち時間に地下のミュージアムで開催されていたマリメッコ展を覗く。
鮮やかな色彩と配色に目を奪われ、自然や生活の中からデザインされた楽しいモチーフの数々に気持ちが上がる。
そして史上最年少で監督になり、パリオペラ座に挑んだ天才振付師 バンジャマン・ミルピエのドキュメンタリー。モダンバレエの創作から稽古、衣装や照明、技術などの舞台裏、ミルピエの秘書とのやりとりなど彼の日常やアイデア、思考そのものを写していて、非常に興味深い。何とかして伝統に縛られたバレエの世界を変革しようと、ダンサーの身になっての指導やトップとの交渉など、果敢に挑む姿は本当に頼もしい。それなのにこの公演の4ヶ月後に辞任してしまったという。やはり彼一人では変えられなかったのかと思うと残念だけれど、何かが残ったことには違いない。
最終日に間に合って良かったのだが、もっと延長で上映して良い作品だと思う。
そんなわけでとても濃い1日になりました…