【SOUND】クーラウ:ソナチネ ト長調
フリードリヒ・クーラウ:ソナチネ ト長調 Op. 55-2
Friedrich KUHLAU: Sonatine G-major, Op. 55-2
フリードリヒ・クーラウ:ソナチネ ト長調 Op. 55-2
Friedrich KUHLAU: Sonatine G-major, Op. 55-2
ヨゼフ・ハイドン:ピアノ・ソナタ Hob. XVI/4 より 第1楽章
Josef HAYDN: 1st movement from Piano Sonata, Hob. XVI/4
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ:ポロネーズ BWV Anh. 125
Carl Philipp Emanuel BACH: Polonaise, BWV Anh. 125
フランソワ・クープラン:ガヴォット
François COUPERIN: Gavotte
ベラ・バルトーク:《子供のために》第1巻 第11番
Béla BARTÓK: For children Book-I No. 11
年末からこじらせた風邪がようやく治ってきたので、楽しみにしていた公演へ思い切って出掛けた。
ブルガリアンヴォイス・アンジェリテ@武蔵野市民文化会館
Bulgarian Voices Angelite
20人のアカペラ女性合唱。ブルガリアの地方に伝承する民謡から、民謡を基にした現代風な合唱曲まで、地声に近い独特な発声とハーモニーで観客を魅了する。流れ星は良いことだけでなく不吉なことの前兆でもあると歌うものや、唐辛子の植え方、花の咲かせ方、実の付け方を教えてくれる歌もある。一人一人違うデザインの色鮮やかな民族衣装もまた手が込んでいて、非常に魅力的。もう少し狭いホールだったらさらに迫力も感じられただろうと思うが、20年振りの来日で3公演のみとのことなので仕方ない。曲によっては4人だけで歌うのだが、親子ほどの年齢が離れているように見受けられるメンバーが声色を揃えて歌い、こうやって次世代へ伝承されていくのだろうなと感じました。
〔facebookパーソナルページより転載〕
ショスタコーヴィチ 24の前奏曲 Op. 34 より5曲
演奏:三宅麻美(ピアノ)
2018年1月4日 辛島輝治先生傘寿記念演奏会
この4日間で3回もサントリーホールへ通ったので、備忘録として。
◆10/20 ポゴレリッチのピアノリサイタル
Ivo Pogorelich Piano Recital
クレメンティの落ち着いたテンポの中での軽さ、ショパン バラード3番の奥行きと煌めきは流石だったが、主としてテンポが遅く、左手の強拍にやたらと意識を向けたハイドン、ベートーヴェンや、とてもピアノの音とは思えない爆音続きのリストエチュードやラヴァルスには、聴いている方が疲れ果てて体力を奪われ消耗する。これを本人は超真顔で弾いていることを考えると、もっと年老いて彼の体力が衰えた頃になってからまた聴いてみたいと思うのだった。
ちなみに当日は彼の59歳の誕生日で、会場全員で歌のサプライズが仕組まれた。
◆10/22 マティアス・ゲルネの冬の旅
Matthias Gerne Winterreise
つい先日同ホールでリサイタルを行った93歳のメナハム・プレスラーも聴きに来ていた公演。本来、クリストフ・エッシェンバッハが伴奏を務めるはずが、残念ながら手の故障で代役のマルクス・ヒンターホイザーに。
やはりゲルネは声が素晴らしく、それぞれの場面を巧妙に描写した声色の変化が非常にドラマティック。伴奏のヒンターホイザーもその声色を壊さないように奥へ奥へと入って行く。
ただ、響き重視の歌い方なのでドイツ語の律動はあまり感じられない。ドイツ人が歌っているにもかかわらず、ドイツリートとしての説得力に少々欠けているように感じたのは、以前聴いた時と同じだった。そういう意味ではシューベルトより、シューマンの方が彼に合っているかもしれない。
曲間の運び、頂点の定め方など曲集としての総合的な捉え方に、ザルツブルク音楽祭音楽監督でもあり多くのプロジェクトを手掛けるヒンターホイザーの手腕が見事に振るわれていた。
◆10/23 東フィル&プレトニョフ
Mikhail Pletnev&Tokyo Philharmonic Orchestra
グリンカのカマリンスカヤで楽しく始まり、ボロディンやリャードフの交響詩、そして後半はリムスキー=コルサコフのオペラ組曲を3つという珍しいプログラム。
整然とした指揮のせいかやや大人しく、もしこれがロシアのオケなら…と思うところもあったが、弦もそれぞれのセクションにまとまりがあり、管楽器の聴かせどころが随所に散りばめられ(特にクラリネットとトランペット)、細部まで見事な情景描写や場面の移ろいに素直に身を委ねて聴いた。
舞台の後方席だったので、終始ご機嫌なプレトニョフの表情が良くわかり、ロシア国民楽派の色彩やリズムに自らも楽しみながらの指揮振りだった。
〔facebookパーソナルページより転載〕
先週、用事の合間にようやく、20世紀最大の彫刻家 アルベルト・ジャコメッティ展へ出掛けた。
Exhibition of Alberto Giacometti @The National Art Center Tokyo
普通、美術館にあるジャコメッティはせいぜい一体、多くて二体だと思うけれど、大小さまざま、これだけ多くの作品が時代を追って展示されているのに驚く。順に観ていくと、なぜこのような表現に行き着くのかが非常に良くわかるようになっている。
ミュシャの時と同じように、ひと部屋だけ写真撮影可能になっているのを知り、慌ててロッカーに携帯電話を取りに行く。
スタンパ というイタリア国境にあるスイスの小さな村で生まれ、父親が画家で、幼少期からアトリエにいるのが当たり前の生活をし、父の影響で「見たままを捉える」セザンヌに憧れ、イタリア絵画、古代エジプト・中世の美術にのめり込む。
アフリカ、オセアニア、キクラデスの彫刻に興味を持ち、頭蓋骨のデッサンに励んだりもする。キュビズムやシュルレアリスムを体現したあとに放棄して、モデルを前にした制作へ行き着くが、その独特な距離感から等身大では制作できず、マッチ箱に入るほどまで小さな作品になる。
哲学者サルトルや日本人哲学者の矢内原伊作との交流など、その足跡を知ってから作品を観ると、なるほどと頷ける。
印象的な本人の言葉を以下備忘録として。
“見えるものを見える通りに捉える 到底不可能なのを知っているが自分にできる唯一のこと”
“私とモデルの間にある距離はたえず増大する傾向を持っている”
“もの に近づけば近づくほど、もの が遠ざかる”
“モデルを前に、生者を死者から隔てるまなざしをとらえることに執着した”
“ひとつの彫刻はひとつのオブジェではない
それはひとつの問いかけであり、質問であり、答えである
それは完成されることもあり得ず、完全でもあり得ない”
“絵も彫刻も詩も文学もたいしたものではない
試みること、それがすべてだ”
〔facebookパーソナルページより転載〕