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【アート覚書き】シャルル・フランソワ・ドービニー展
梅雨の合間に東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館のドービニー展へ。
Charles François Daubigny@Seiji Togo Memorial Sompo Japan Museum of Art
一年振りに行ってみると、このビルの隣に背の低い新美術館を建築中で、高層ビルの44階で絵を観るのは最後になりそうだ。
シャルル・フランソワ・ドービニー(1817〜1878)は同じく風景画家の父を持ち、20歳ほど歳上の画家カミーユ・コローと親しく、制作のために旅行を共にしたり、自分のアトリエの壁画を頼んで描いてもらったり、自らの意思によりペール・ラシェーズ墓地にも並んで眠っているそう。あのゴッホの憧れの画家でもあり、面会は叶わなかったらしいが、《ドービニーの庭》という作品を残している。
歴史的風景画を描いていた1840年頃の作品でも既に空の高さとその色を際立たせており、洗濯する女性のいる水辺の絵など、樹々の緑のグラデーションが目を惹く。明らかに写実ではなく、印象派のはしりと言うべきか。ローマ賞に二度落選したというけれど、パリのマリー橋を描いた小さな水彩画は夕暮れが美しく、オワーズ河畔を描いた作品はどれも空間の広がりと緑のグラデーションが美しい。ベルギーに起源を持つオワーズ川はセーヌ川に比べると対岸が近く、しかも水量が豊富で穏やかなので、多くの画家が移り住んでいるそうだが、ドービニーもその一人で、オワーズ川の夜明け、日没、春、夏、雨模様の空など、水辺の光と空気を描き分けている。
特に《オワーズ川の中州》は観ているこちらも深い呼吸のできる作品で、ヨーロッパの空気感を思い出す。コローの作品に比べると、空の広がりと明るさが増し、水面に映る空の青と樹々の緑が光を捉えている。
40歳で『ボタン号』というアトリエ小屋のついた小舟を手に入れると、見習い水夫という名の息子カールと旅に出る。旅先で写生をして、それをもとに部屋にこもって絵を描くのではなく、自然に近いところで描く姿勢が、若いモネやピサロに影響を与えたという。
版画集《船の旅》はそんな旅の情景を作品にしたもので、水夫である息子が釣りをする様子、船で食事を作り酒を飲んだり、大きな蒸気船のあおりを受けて転覆しそうになったり、アトリエ小屋の中で寝る様子などが描かれ、ほのぼのとした雰囲気が伝わる。息子も同じく風景画を描き、3点あった絵画からは父と瓜二つの筆使いが見て取れた。
晩年まで船の旅を続け、次第に筆使いを残す、荒いタッチになっていった。
それにしても、時間帯によるのかもしれないけれど、空いている美術館で一対一で絵と対峙できるのは何と幸せなことだろうか!
〔facebookパーソナルページより転載〕
【アート覚書き】ルート・ブリュック 蝶の軌跡展
Rut Bryk Touch of a Butterfly@Tokyo Station Gallery
東京駅丸の内北口にあるステーションギャラリーは、オリジナリティー溢れる企画でアートマニアを楽しませてくれるが、フィンランドの女性セラミック・アーティストだったルート・ブリュックの展示もその例に漏れず、チラシを見た時から妙に惹かれていた。
国内では初めての本格的な展示となったブリュックは、洗練された北欧デザインが売りの食器メーカー、アラビア製陶所でアーティストとして働きながら、個性的な陶板アートを作成する。
最初の展示室は今回写真撮影が許されており、深い青や緑、落ち着きのあるピンクやターコイズブルーなどその色合いに惹かれ、またその素朴で歪みのある形に惹かれ、スマートフォンで撮影をしながら何周まわっても飽きずに観続けた。ベネツィアの宮殿やシチリアの教会、カレリアの住居など、釉薬のかかった部分の艶が美しく、枠の風合いとともにステンドグラスを思わせる。ライオンのお腹の部分にさりげなくロバがいたり、3羽の鳥が向き合っていたり、時にユーモラスでメルヘンな題材を独創的なアートに仕上げている。父親が蝶の研究者だったので、様々な色の蝶の作品も目を惹く。
これだけでも十分満足できるものなのだが、その後モザイクのように小さなタイルを組み合わせて創るタイルアートへと変貌する。ブリュッセルの万博やミラノトリエンナーレ芸術祭のために、白、アースカラー、オレンジ、肌色のタイルと立方体の組み合わせでそれぞれの都市を表現したり、インドなどを旅した印象を形にしたイコンがあったり。
そしてさらにタイルが粒子のごとく小さくなり、簡素化していく。当然のごとく抽象画となり、幾何学的な模様が多くなる。
北欧の純粋な美しさと力強い自然を描いたという晩年の作品、《春の雲》《木》《流氷》のタイルアートは、平面上に光と影を織り交ぜながら、ちいさなタイル一つ一つに意味を持たせ、生まれては朽ち果て、現れては消えて行く、万物のはかなさをも感じさせてくれた。
〔facebookパーソナルページより転載〕
【アート覚書き】クリムト展とウィーン・モダン展
梅雨入り前の先週、東京都美術館のクリムト展と、国立新美術館のウィーン・モダン展を鑑賞した。
Exhibitions of Gustav Klimt @Tokyo Metropolitan Art Museum and Vienna on the path to modernism @The National Art Center Tokyo
まず都美術館の方は、今年没後100年になるクリムトの油彩画が25点以上も揃うという充実振り。クリムトといえば女性遍歴も多く、裸婦や愛し合う男女をシンボルにした作品が思い浮かぶが、そういった作品に辿り着くまでの経緯が分かるように、時代順にさまざまな作品が並ぶ。7人兄弟の長男で、14歳で工芸美術学校に入学。若い頃は肖像画も多く描いており、21歳で友人や弟と工房を設立し、室内・舞台装飾の分野で活躍。公的機関からの依頼も来るようになり、時の人となるが、次第に伝統への迎合を嫌うようになり、分離派を結成。黄金様式へと向かっていく。金工師だった父親と、同じく美術の道を歩んでいた弟のエルンストを30歳の時になくし、姉と母は鬱病を患っていたらしく、クリムトの絵に現れる不吉で不安定なモチーフに繋がっていく。
私にとって印象的だったのは、金色を使った派手で官能的な作品よりも、養子にしたという姪ヘレーネや、生涯を通してのパートナーだったエミリエ・フレーゲなど身近な女性を描いた肖像画。舞台装飾やポスターなど幅広い作品に取り組んできただけあって、自らデザインしたという額縁も含め、そこにはデザイン性の高さが現れている。モノトーンの色彩、シンプルな構図のなかで、女性らしさを際立たせる。肌の色や衣服の透けるような質感と、首筋や髪の生え際が強調される横顔ならではの視点が、クリムトが抱く女性へのただならぬ関心を表している。
目玉作品として展示されていた、首を取り恍惚の表情をした《ユディト》や、手鏡を持った《ヌーダ・ヴェリタス》は、絵よりも黄金の額縁やシラーの文章に目がいってしまい、期待していた《ベートーヴェン・フリーズ》も、ベートーヴェンの音楽やシラーの思想とはどうも結びつかず、今ひとつピンと来なかった。
ただ、大衆に迎合せずに自分の中の真実を追究する姿勢と行動が、世の中にインパクトを与えたという事実は実感できた気がする。
一方のウィーン・モダン展は、改装中のウィーン・ミュージアムから膨大な数のコレクションが来日。マリア・テレジアの肖像画から始まり、ウィーンの都市の変貌、オットー・ヴァーグナーの建築計画など、絵画だけでなく食器や家具、衣装やアクセサリーに設計図までが所狭しと並び、クリムトにたどり着くまでにかなりの時間がかかった。
こちらのクリムト作品は素描も多くあり、特に初期の寓意絵(ドイツ留学中、何処かの美術館で惹かれて買った絵葉書の《愛》という作品)に思いがけず出会えたのが嬉しかった。絵葉書には男女の姿しか写っていなかったのだが、その上部には2人の運命を示すような不吉な3つの顔があり、額縁は金色と深緑の丁寧な作りになっていた。こちらもやはり透けるような肌と、霧がかった色彩感が印象的。
そしてそのクリムトを尊敬し、クリムトもその才能を認めたエゴン・シーレの作品が素晴らしかった。10代で父親を失い、その現実を受け入れられずに必死で絵を描いたというシーレが、ゴッホの影響を受けて描いた画家の部屋やひまわり、パトロンだったレスラーの肖像画など、落ち着いた暖色系の色合いと、物を捉える線の独特な角度、そして丁寧で迷いのない塗りの線がそのままデザインになって、見事な一体感を成しているのが凄い。枯れたひまわりの背景の白色でさえ、強くなにかを訴えかけてくる。
その他にこの展示で充実していたのが、分離派やウィーン工房のポスターグラフィックで、字体、色合い、デザイン、どれを見ていても飽きないものだった。
また、ウィーンならではの作曲家たち ーー シューベルトの有名な肖像画や実際に使用していた眼鏡、シューベルティアーデの様子を描いたもの、ヨハン・シュトラウスやマーラーの彫像、シェーンベルクの肖像画、シェーンベルクが描いたアルバン・ベルクの肖像画(!)まで展示されているのには驚いた。
ウィーン・モダン展の後、同じ国立新美術館で開催中の日洋展に出品されていた、叔母 並木貴子の《輝きの大地 2019》を観た。これまでもこのシリーズの絵を観てきたけれど、委員賞を受賞しただけあって、黄色と黒のコントラストが効いており、余分なものが削ぎ落とされてきているのが分かる。大胆な筆使いに、気持ちの定まり、叔母の進化、新境地を感じることが出来て、とても嬉しかった。
〔facebookパーソナルページより転載〕
【コンサート覚書き】ユリアン・プレガルディエン&エリック・ル・サージュ 〜シューマン 詩と音楽〜
ユリアン・プレガルディエン&エリック・ル・サージュ
〜シューマン 詩と音楽〜
Julian Prégardien & Eric Le Sage
Schumann & Heine @ Oji Hall, Tokyo
シューマンの珠玉の歌曲とピアノ作品を組み合わせた、魅力的なプログラムに惹かれ、仕事の後に王子ホールへ出掛けた。
前半に作品24のリーダークライスと4つの夜曲、後半は詩人の恋とクライスレリアーナから2曲という、ハイネの詩によるドイツ歌曲と、E.T.A.ホフマンの短編集からインスピレーションを得たピアノ小品によるプログラム。
ルサージュのピアノは、機知に富んでいながら非常に柔軟で、即興性のあるところが以前から好きで何度も聴いているが、同じく歌手の父親を持つドイツ人のテノール プレガルディエンを生で聴くのは初めて。噂には聞いていたものの、冒頭からその真っ直ぐで張りのある声と、曲が盛り上がる度に声量が増していく表現に、自然と引き込まれる。ドイツ語の明瞭さが素晴らしく、以前、響き重視のマティアス・ゲルネの歌唱に疑問を抱いただけに、胸が空くような発音の良さが耳に心地よい。
ルサージュのリート伴奏も呼吸を合わせて空気のように寄り添い、テノールとの一体感を成す。ピアノソロの4つの夜曲では、伴奏に比べてさらに奥行きが増す。中音域の音が開き過ぎて扱いにくそうなスタインウェイを弾ききり、第4曲のテーマの再現では、先ほどのリーダークライスの終末感を彷彿とさせ、シューマン独特の現実離れした世界観を感じさせてくれた。
《詩人の恋》では、最新校訂版の楽譜を用いているからか、フレーズの繰り返し部分で耳馴染みのない装飾が入るのに違和感を覚えたが、この曲集をこの2人の組み合わせで、しかも5月のこの季節に聴けるだけで幸せだった。プレガルディエンは特に、第11曲や第15曲などの台詞調の曲に説得力を発揮する。そして第8曲と第9曲の間に、クライスレリアーナから第1曲のみ(プログラムには第2曲も載っていたが、訂正で1曲のみに)をルサージュが弾いたのだが、この形式は今年生誕200年になるクララ・シューマンが実際に行っていたものらしい。その当時は3曲を挿入したそうだが今回は1曲のみで、しかも歌手を舞台の真ん中に立たせたまま弾くのは集中しないのか、輪をかけて早弾きになり、そのまま詩人の恋の第9曲に突入。気持ち乱れたままリズムが疎かになってしまい、今回のピアノ曲挿入は残念ながら功を奏さなかった。しかしルサージュは、それぞれの曲のキャラクターを見事に弾き分け、それらを繋ぎ、またプレガルディエンに欠けている響きの丸みを存分に補充してくれた。
アンコールは同じくシューマンの”月夜”と”献呈”。前者の儚げな高音と、後者の情熱的で潔い高音の歌い分けが見事だった。
〔facebookパーソナルページより転載〕
【コンサート覚書き】地中海のポリフォニー コルシカの男声声楽アンサンブル「タヴァーニャ」
地中海のポリフォニー コルシカの男声声楽アンサンブル「タヴァーニャ」
La folle journée Tokyo 2019
Cor di memoria Tavagna Corsian chant
一昨日のこどもの日、今年のラ・フォル・ジュルネ音楽祭に一公演だけ聴きに出掛けた。
会場は以前にも何度か足を運んだことのある250席ほどの、響きのデッドなホールB5。
今回の「タヴァーニャ」は9人のアカペラアンサンブルで、時間になって舞台上にゾロゾロと出てきたのが、イタリアの街角に居そうな普通のおじさん(失礼な言い方だが、9人中2人は40代で、あとは60才以上と思われる初老の方々ばかり)なので、え? この人達が? と驚いたのだが、始まった途端にその疑いは打ち消された。
最初の2曲は3人のみで歌い、自分の声をコントロールするためか、片手を耳にあて、もう片方の手は隣のメンバーの肩に掛けたりと、身体や顔を寄せ合って歌う。声は地声に近く、ソロパート1人にあとの2人が合いの手を入れ、和声付けをする。
特に冒頭の“タリウ村のパディエッラ”という曲は、世界文化遺産に登録されたコルシカ島の歌謡だそうで、即興的なこぶしを使った張りのある地声がホールに響き渡り、その哀愁に満ちた歌詞の内容もあって、非常に胸に迫るものだった。
3曲目からは全員で円く弧を描いて立ち、お互いの顔を見合いながら、音を聴き合いながら、時に眼くばせをしたり微笑み合ったりしながら歌う。大まかにはバス担当、テノール担当など分かれているが、高い声で歌うメンバーの中には、かなり低い音域まで出せる人もいるようだった。
これだけ近くで歌い合うのだから、メンバー同士のその日の体調なども手に取るように分かるだろう、などと思いを巡らせる。
伝統的な教会歌と世俗歌に加え、現代の作曲家に依頼したものや、自分たちで創作したものもあり、教会歌以外はすべてコルシカ語(イタリア語の方言のように聞こえた)で歌われる。日常生活における喜怒哀楽のみならず、社会に対する意見や主張も歌にしていく、土着の図太さ、たくましさを感じた。
曲間でメンバーの1人が曲の説明をし(通訳付き)、「我々は先祖、祖父の代から受け継ぎ、それを息子や孫の世代に伝えていくので、そこに新しい風を入れることが重要だ」「こうして皆さんの前で披露して、皆さんのその表情から、我々の音楽が皆さんに浸透し、またそこから我々も再びこの音楽に取り組む活力を頂いている」と話すのを聞いて、まさにそれこそが芸術文化の普遍的な価値だろうと、惜しみない拍手を送った。
〔facebookパーソナルページより転載〕
【コンサート覚書き】アレクサンドル・クニャーゼフ&ニコライ・ルガンスキー デュオリサイタル
アレクサンドル・クニャーゼフ&ニコライ・ルガンスキー
デュオリサイタル
Alexander Kniazev & Nikolai Lugansky
Duo Recital @ Kioi Hall, Tokyo
先月下旬、ロシア人同士の演奏家によるロシア・プログラムを楽しみに出かけた。
まず耳に飛び込んでくるのがチェロのふくよかな音。弓に相当な圧力をかけるためか、音の威力がすごい。エンドピンが短く、床板が近いので、地面というか大地との一体感を感じるような音。舞台との距離がかなりある2階席右端にいても十二分に表情が伝わってくる。
対するピアノの音はチェロとは正反対で、容積はあっても密度が薄く、スタインウェイピアノが良くないのか、わざと音の芯を捉えていないのか、やりたいことがこちらに伝わってこない。濃密な音作りやフレージング、場面構築をするクニャーゼフ(ノンヴィブラートのストレートな音作りがショスタコーヴィチの音楽に非常にマッチングしており、はたまたロマンティックな第1楽章第2テーマや第3楽章のテーマの出だしなど、その場面毎に合わせた世界観が、第1音から毅然と現れている)に対し、ルガンスキーは音のみならずその音楽にすら乗り遅れているというか、乗り切れていないというか。こちらも理想像がはっきりとあるだけに、とても歯痒い気持ちで聴いていた。
2曲目、フランクのヴァイオリン・ソナタをチェロで聴くのは初めてだったが、その違和感を覚えたのは始めの方だけで、あとは自然に聴き入った。ただヴァイオリンではフッと力を抜くところなどにもクニャーゼフの全身全霊で弾くスタイルが貫かれるため、聞く側としてはやや疲れてしまう。
ルガンスキーはショスタコーヴィチよりもフランクの方が音質的に合っているようで、第2楽章最後の疾走感やチェロとのバランスは見事で、第4楽章の天から降り注ぐようなテーマは美しかった。
ラフマニノフになると、ますますピアノが主体になってくるだけに、前半で感じていた不足感が助長。昨年バッハ無伴奏の時に感嘆したように、チェロがいかに繰り返しを違ったニュアンスで巧みに聴かせても、再現部の調性感を見事に表現しても、それに応え、支え、包み込み、またこちらからも仕掛けて行くピアノがないと感動もできず、全曲暗譜のクニャーゼフに対して、ピアニストの情熱の温度差、物足りなさを感じざるを得なかった。これがもしリヒテルだったなら….!!
アンコールは3曲。ブラームス歌曲編曲がまた、本当に歌を歌っているような抑揚で素晴らしかった。
【コンサート覚書き】テオドール・クルレンティス&ムジカ・エテルナ初来日
テオドール・クルレンティス&ムジカ・エテルナ初来日
チャイコフスキープログラム
Teodor Currentzis and Music Aeterna – Tchaikovsky Program
@Sumida Triphony Hall
インフルエンザの苦しみがようやく抜け始めてきたので、前から楽しみにしていたオーケストラ ムジカ・エテルナを聴きに行った。世界中で話題騒然、「異端児クルレンティス」「危険な音楽集団」との触れ込みあってか、1800席のすみだトリフォニー大ホールが満席完売。
前半はソリストにパトリツィア・コパチンスカヤを迎えてのヴァイオリン協奏曲で、後半は交響曲第4番。
まず音に色がある。オーケストラだから様々な楽器の色があって当然、というレベルではない。弦楽四重奏や少人数のアンサンブルでのみ実現するような、調性や和声の変化、ニュアンスを大編成のオーケストラで緻密に再現している。
そしてなんと言っても歌い回しのしなやかさ。フレーズの中での音のデクラメーション(増量と減衰)を細部に渡り、また曲全体にも渡ってコントロールしているので、通常オーケストラでは難しい絶妙なルバートと抑揚、切れ味を生み出している。木管楽器の表現力は特筆すべきで、特にクラリネットとフルートは素晴らしい腕前。
ソリストのコパチンスカヤは、噂通り舞台上でスリッパのような靴を脱ぎ、裸足で演奏。終始小鳥がさえずっているようなヴァイオリンで、即興的ではあるけれど極端に音量を落とし過ぎたり、音としての美しさがなく、豊かな響きと表現力を持つオーケストラとのバランスが非常に悪い。フラジオレットやグリッサンドの滑りなど際立った技巧を持っていて、現代曲やジプシー的な民族音楽などには向いているのだろう。稀有で個性的な存在だというのはわかるが、拍感も歌い出しも曖昧で、メロディーラインにチャイコフスキーらしい哀愁、優雅さがほとんど感じられず、大変残念だった。
休憩中、ヴァイオリンとヴィオラ、木管楽器の椅子が全て舞台袖に下げられ、後半は交響曲の間中なんと立ちっぱなし(!)で演奏。それが功を奏し、デュナーミクの幅を与え、音楽に身体全体から生まれる自然な波動を与える。指揮者と同じ目線で演奏することで、当然一体感も増す。金管楽器も吹くときは立奏するので、それに対応するようにだろうか、低弦の多さが目立つなと思って数えてみたら、 コントラバス9本、チェロ14本、ヴィオラ14本だった。(ちなみに1stヴァイオリンは17本、 2ndヴァイオリンが15本)
クルレンティス自身が言うように、「家族のような」団員たちと長時間かけて、入念に徹底した準備をし、これまで弾かれてきた伝統や全体像を把握した上で彼の狙いやこだわりを際立たせるので、説得力がある。久々にオーケストラの演奏に魅せられ、引き込まれた。
終演後、通常は指揮者のみがお辞儀するところを、団員全員でお辞儀するのはとても清々しく、そうするに相応しい演奏だった。
アンコールに、2日後のプログラムの演目である 幻想序曲《ロメオとジュリエット》までそのまま立奏するおまけ付き。15時に始まった演奏会が終わったのは18時近かった。
〔facebookパーソナルページより転載〕
『音楽の友』2月号「音楽評論家・記者が選ぶコンサート ベストテン2018」選出
お知らせが遅くなりましたが、大変名誉なことに 雑誌『音楽の友』2月号の音楽評論家・記者が選ぶコンサート ベストテン2018に、一昨年12月のベートーヴェンピアノソナタ全曲演奏会最終回を選んでいただきました!(音楽評論・上田弘子氏選出)
身の引き締まる思いです。これからも弛まず高みを目指して精進いたします。
【コンサート覚書き】ホアキン・アチュカロ ピアノリサイタル
Joaquin Achucarro Piano Recital @ Tokyo Bunka Kaikan Recital Hall
先週はマスタークラスを聴講し、純粋に、ひたすら目の前の音楽に感動しながら、その喜びを共有する、お人柄溢れるレッスンをなさるのに大いに共感したところだったので、楽しみに出掛けた。
前半はショパン24の前奏曲集。一曲ずつ、そして一音ずつ愛おしみながら、慈しみながらの演奏。特に4番、11番、13番、15番などスローな曲での音のグラデーションが素晴らしく、まさにその場所に欲しい音を紡ぎ出す。かと思うと18番などの劇的で鮮烈な語り口もあり、弾き手の想いに満ちたショパンだった。
そしてアラウンド・グラナダと題された後半。アルベニス、ドビュッシー、ファリャの小品を繋ぎ、アンダルシア幻想曲で締めくくる充実のプログラム。スペイン・バスク地方出身のアチュカロの奏でるスペインものは、思ったよりもリズムが厳格で、重々しい。それでもやはりショパンとは違い、余分な肩の力が抜けた自然な打鍵から生み出される音は非常に立体感があり、光と陰、艶やかなリズムと色彩を添え、その音楽はまるで身体の一部であるかのような印象を与えてくれた。
アンコールはグリーグの抒情小曲集から夜想曲、ファリャの火祭りの踊り、ショパン夜想曲。
〔facebookパーソナルページより転載〕