月刊『ショパン』8月号特集「ピアニストたちはいま……」に掲載
月刊『ショパン』8月号の特集「ピアニストたちはいま……」に掲載されました。
月刊『ショパン』8月号の特集「ピアニストたちはいま……」に掲載されました。
『音楽の友』4月号の特集「ベートーヴェン演奏の最前線」で、今年の注目&お薦めコンサートとして11月の新シリーズ『浪漫の花束』を紹介していただきました。
三宅麻美ベートーヴェン・リサイタル「生誕250年プレイベント」
(2019年12月27日、ヤマハ銀座コンサートサロン。使用ピアノ=ヤマハ)
本編=ベートーヴェン「ドレスラーの行進曲の主題による9つの変奏曲ハ短調WoO.63」
「創作主題による6つの変奏曲ヘ長調作品34」「ディアベッリのワルツの主題による33の変奏曲ハ長調作品120」
アンコール=シューベルト「ディアベッリのワルツによる変奏曲(第38変奏)ハ短調D.718」
三宅との初対面が実現したのは2006年。もう13年も前の出来事だ。当時のライヴ、「24の前奏曲とフーガ」のCDなどのショスタコーヴィチ演奏を通じ、三宅が高度の技術(メカニック)と魅力的な音色を備えながら、それを効果(エフェクト)に使う場面を戒め、作曲家の内面を探索するためのツールとして使い尽くす潔さに感銘を受けた。「ちゃらちゃらした人気には無縁だろうけど、一歩ずつ確実に内容を深め、支持者を増やしていくだろうな」と確信した。2010-2017年のベートーヴェン「ピアノ・ソナタ全曲(32曲)」演奏会には、いつもあれこれ重なってうかがえず、よい評判を聴くたびに残念で申し訳ない思いをしたが、今年も押し詰まり、2020年のベートーヴェン・イヤー目前のところで「ディアベッリ」が聴けるというので、早くから予定に入れていたリサイタルである。
三宅は「楽曲解説を載せない代わり」と前置きのうえ、それぞれの作品の背景や魅力を演奏の前に語る。「WoO」(作品番号なしの作品)表記を伴う初期作品の「ドレスラー…」についても、「ベートーヴェンにとって《運命の調性》となったハ短調で書かれた」の説明が伴えば、より興味深く聴ける。前半2曲はどちらかと言えばあっさり、啓蒙的視点からの作品紹介に徹していたが、「ディアベッリ」では勇猛果敢な演奏家魂が全開した。とりわけワルツ(4分の3)以外の拍子を採用した変奏の数々に目を向け、作曲家の反骨精神や挑発、実験志向を丁寧に解きほぐしつつ、着地まで飽きさせずに聴かせた。「ソナタ全曲を終えたら《ディアベッリ》と思っていました」という三宅の夢は、かなり高い次元でかなった。
〔iketaku honpoより一部転載させていただきました〕
Philharmonia Orchestra @Tokyo Bunka Kaikan
Program
Stravinsky Le Sacre du printemps
Stravinsky L’Oiseau de feu
ベルリン留学時代、様々な指揮者がベルリン・フィルを振るのを聴いたが、当時の常任指揮者だったクラウディオ・アバドよりも、先日亡くなったマリス・ヤンソンス、ベルナルト・ハイティンク、ギュンター・ヴァントなど客演指揮者の方が印象に残る演奏が多く、なかでも脳裏に焼き付いているのがクルト・ザンデルリンクのショスタコーヴィチ交響曲第15番とサロネンの火の鳥だった。
ロンドンを拠点とするフィルハーモニア管弦楽団とは30年以上の付き合いで、首席を務めるのは今シーズン限りとのこと。しかもストラヴィンスキー・プログラム。集大成の演奏が聴けるのを楽しみに出掛けた。
サロネンの切れ味は健在で、《春の祭典》は文化会館の残響が曲にちょうど良く、低弦のゴリゴリとした音や、総管楽器群の華々しい音が直に聞こえ、オーケストラの一体感が素晴らしい。団員もサロネンを信頼し、サロネンも団員を信頼し切っていて、縛りすぎずかつ、勢い良く統率していく。
久々に大編成のオーケストラ(打楽器セクションに6人いるだけでワクワクする)のドライブ感を味わい、ゾクッと鳥肌が立った。
後半の《火の鳥》も絶妙なテンポ感と間合い、色彩、曲の核心を捉えた構築性で、ドラマティックに展開し、思わずその場面が目に浮かんでくる。弦楽器には最弱音を要求し、トランペットにはミュートを装着した上にさらに音量を絞り込むよう指示する。サロネンのタイトでスマートな指揮振りを再び体験し、最後はまるでサロネン自身がオーケストラに魔法をかける火の鳥のように見えてきた。
アンコールのマメールロワ終曲がまた、冒頭のテンポ感といい、選曲といい、感動的だった。
作曲家としての顔を持ち、その視点からの革新的な解釈もさることながら、客席上部に待機したトランペット奏者に合図するためにこちらに身体を向ける演出や、アンコールで客席に向かい人差し指を口にあてて一瞬で拍手を止めさせ、話しかける気さくさ、フットワークの軽さも人気の要因だろう。
終演後はCDが飛ぶように売れ、楽屋口には長い出待ちの列ができていた。
@Hamarikyu Asahi Hall, Tokyo
Program
Tchaikovsky: Les Saisons
Prokofiev: Sarcasms, Toccata
Schumann: Novelette Nr 8, Fantasie
ゲンリフ・ネイガウス直伝のロシアピアニズムを継承するピアニストとしては今やもうほぼ最後の存在となってしまったエリソ・ヴィルサラーゼが、今年も非常に興味を唆られるプログラムとともに来日してくれた。
チャイコフスキー 四季(1月〜8月)は冒頭から、まるで自宅のピアノで弾き出したかのようごく自然で温かな息づかいと集中力で聞かせる。それぞれの曲の性格を、あたかも匂いを嗅ぐかのように瞬時に掴み、移行していく。これまでにも増してその瞬間は冴え渡っていて、息つく暇もなくガラッと雰囲気を変える巧さに脱帽する。豊富なピアニッシモ層のグラデーションと、身体に染み付いた語り口を堪能した。
プロコフィエフは一転、乾いたペダリングや禁欲的な響きで輪郭のみを提示しながら進む。グロテスク過ぎる表現を嫌い、どれも足早に過ぎ去り、曲のエッセンスが凝縮、圧縮されたような表現が新鮮だった。
後半、お得意のシューマンは俄然音に膨らみが出て、響きに色彩が増す。ノヴェレッテは留学中のミラノでも聴いたことを、つい先日のように思い出し、あれから20年も経つのにまるで色あせることのないピアニズムを聴きながら、学生時代彼女のレコードを聴いて以来、何にこんなに惹きつけられるのだろうと考えてみる。ロシア・ピアニズム特有の息の長いフレーズはもちろん、“徹底”した声部間のバランスと鋭敏なリズム感、そして感情に飲み込まれ過ぎない凛とした表現に惹きつけられ、また音楽に対する彼女の信念の強さに心から共感しているのだなと思う。70代後半になってもこのエネルギー、ただ敬服!!
@Sumida Triphony Hall
Program
Mozart Fantasie d moll K397
Sonate a moll K310
Karmanov Schumaniana
Ustvolskaja Sonate Nr.5
Mozart Fantasie c moll K396
Sonate c moll K457
先週末、衝撃の引退宣言⁉︎ という見出しに驚きながら一年振りにリュビモフの演奏会へ。
まず幻想曲の出だしのアルペジオから、和音が生まれては朽ちてゆくさまをセンスのあるルバートで見事に表現し、メロディーを歌わせながらその伴奏形を活かすペダリングの巧さに魅せられてしまう。古典のスタイルを保つ中での表現の大胆さといおうか、繰り返しの妙技は勿論のこと、次のイ短調ソナタでは強拍を強調するその弾き方が転調とともに説得力を増し、曲の本質へとぐいぐい迫っていく。現代曲を好んで弾くからこその休符や楽章間の間合い、アウフタクトから導かれる動きがあり、また古楽器を好んで弾くからこその手首の柔軟さや抜け感は緩徐楽章のしなやかな音の伸びに繋がっている。第3楽章のイ長調の挿入部は本当に美しく、透明感のある儚げな色彩と凛とした様式美があった。
私自身と同世代の作曲家カルマノフのシューマニアーナ(リュビモフに献呈)は、曲を貫く無窮動的な動きのなかに、シューマン特有のリズムや和声進行が盛り込まれたものだが、一瞬たりとも気が緩まない、見事な緊張感で奏者としての責任を果たしていく。こんなに高いクオリティーで演奏することができるのに、来年を持ってホールでの演奏は引退をするというのだから、とても信じがたい。
後半のウストヴォリスカヤのソナタは以前も彼の演奏で聴いたことがあるが、その時とはまた違う印象で、強烈なクラスター音の連続に現在我々が直面する環境問題への警告のようにも感じ取れた。
モーツァルトのハ短調ファンタジーはいわゆる有名な方ではなく、弟子のシュタードラーが補筆したものであまり耳慣れない曲だけれど、まるでその場で即興演奏をするかのような思い切りと自由闊達な語り口で聴かせる。その後の同調のソナタも前半と同様に、テクスチュアをすっきりと聴かせてくれ、第2楽章の伸びやかな歌い口など、音の行く末まで神経を行き巡らせた名演だった。
このピアノでやりたいことがあると言って選んだCFXの、調整の素晴らしさもあいまって、強打も弱音も、切れも伸びも、バランスも自在に操って、とても弾きやすそうだったのも印象的だった。
先週の恩師ペトルシャンスキーに続き今回、そして明日のリュビモフによるカルト音楽の夜(!)、来週のシチェルバコフとロシアン・ピアニズム満喫の日々は続く…
梅雨の合間に東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館のドービニー展へ。
Charles François Daubigny@Seiji Togo Memorial Sompo Japan Museum of Art
一年振りに行ってみると、このビルの隣に背の低い新美術館を建築中で、高層ビルの44階で絵を観るのは最後になりそうだ。
シャルル・フランソワ・ドービニー(1817〜1878)は同じく風景画家の父を持ち、20歳ほど歳上の画家カミーユ・コローと親しく、制作のために旅行を共にしたり、自分のアトリエの壁画を頼んで描いてもらったり、自らの意思によりペール・ラシェーズ墓地にも並んで眠っているそう。あのゴッホの憧れの画家でもあり、面会は叶わなかったらしいが、《ドービニーの庭》という作品を残している。
歴史的風景画を描いていた1840年頃の作品でも既に空の高さとその色を際立たせており、洗濯する女性のいる水辺の絵など、樹々の緑のグラデーションが目を惹く。明らかに写実ではなく、印象派のはしりと言うべきか。ローマ賞に二度落選したというけれど、パリのマリー橋を描いた小さな水彩画は夕暮れが美しく、オワーズ河畔を描いた作品はどれも空間の広がりと緑のグラデーションが美しい。ベルギーに起源を持つオワーズ川はセーヌ川に比べると対岸が近く、しかも水量が豊富で穏やかなので、多くの画家が移り住んでいるそうだが、ドービニーもその一人で、オワーズ川の夜明け、日没、春、夏、雨模様の空など、水辺の光と空気を描き分けている。
特に《オワーズ川の中州》は観ているこちらも深い呼吸のできる作品で、ヨーロッパの空気感を思い出す。コローの作品に比べると、空の広がりと明るさが増し、水面に映る空の青と樹々の緑が光を捉えている。
40歳で『ボタン号』というアトリエ小屋のついた小舟を手に入れると、見習い水夫という名の息子カールと旅に出る。旅先で写生をして、それをもとに部屋にこもって絵を描くのではなく、自然に近いところで描く姿勢が、若いモネやピサロに影響を与えたという。
版画集《船の旅》はそんな旅の情景を作品にしたもので、水夫である息子が釣りをする様子、船で食事を作り酒を飲んだり、大きな蒸気船のあおりを受けて転覆しそうになったり、アトリエ小屋の中で寝る様子などが描かれ、ほのぼのとした雰囲気が伝わる。息子も同じく風景画を描き、3点あった絵画からは父と瓜二つの筆使いが見て取れた。
晩年まで船の旅を続け、次第に筆使いを残す、荒いタッチになっていった。
それにしても、時間帯によるのかもしれないけれど、空いている美術館で一対一で絵と対峙できるのは何と幸せなことだろうか!