【コンサート覚書き】アレクセイ・リュビモフ エラールを弾く
アレクセイ・リュビモフ
エラールを弾く
Alexei Lubimov plays Erard@Suntory Hall Blue Rose
ロシアンピアニズムの中でも異彩を放つリュビモフの演奏は興味深く、これまでにも何回か聴いてきたが、ピリオド楽器は初めて。しかもサントリーホール所蔵、1867年製全盛期のエラールを弾くというので、楽しみに駆けつけた。
なんと本リサイタルの前に、第1回ピリオド楽器によるショパン国際コンクール入賞者の川口成彦さんの演奏とトーク、リュビモフとの連弾まで追加されるという大サービス振り。
この9月に行われた同コンクールにドイツ留学中の弟子が参加していたので、ネット配信されるオンライン中継は見ていたものの、普段ピリオド楽器を聴く機会は身近にないので、まず音そのものに集中して聴く。その聴く側の姿勢には、まさに聞き耳をたて、古い楽器だから多少の聴きにくさは受け入れる寛容があり、弾く側もきっと、良いも悪いもその楽器の特性、限界をそのまま披露できる気楽さがあるように思う。もちろん責任も十二分にあるとは思うけれど。
福沢諭吉の孫が所有していたこともあるというそのエラールピアノの音は、現代のピアノに比べてハンマーの打音が目立ち、その後に残る響きは素朴で縦には伸びず、余韻はあるが、狭い範囲で波動が伝わっていくようなイメージ。
やはり音の減衰が早いので、音楽が向かって行くときはおのずと切迫感を強いられるのだろう。逆に引いて行くときは時間をかけると、そこはかとない寂寥感を演出できる。同じフレーズを繰り返すときに装飾を入れたりという、当時は当然のごとく奏者に一任されていた表現が堂々とできるのは、ピリオド楽器を弾く特権のように感じられた。我々が現代のピアノを弾く時にも、そのくらいの自由があっても良いのにと思う。
弾き手がリュビモフに替わると、途端に色彩が増し、奥行きが出る。
ベートーヴェンの作品109は、出だしからしてアルペジオによる響きの溜まりが非常に新鮮。第3楽章のテーマの繰り返しに妙技を感じ、第2変奏などは、モダンピアノではその飛翔感を表現するのに打鍵に細心の注意を払うのだが、このピアノではいとも簡単に理想の音が出せてしまえるようだ。
さらにドビュッシーの前奏曲になると、リュビモフはモダンピアノを弾く時より断然自由で、創造的だった。スケールの大きな曲ではやはり、モダンピアノの優越性を感じざるを得なかったが、ピツィカートやバスの原始的な響きを随所に散りばめ、機械的な運きとそうでない旋律線の対比、左右のずらしやアルペジオ、音程感、響きの濃淡、色彩の移ろいなど、イメージする明確な音像を、その知的な打鍵のコントロールで自在にかたち作っていた。
後半のショパン バラード全曲では、当時の風習にならい、一曲毎その調性へ導くためのプレリューディングとして、1番の前に作品28の前奏曲からハ短調、2番の前には前奏曲ヘ長調、3番の前には遺作の前奏曲変イ長調、4番の前には前奏曲へ短調を弾いてアタッカでバラードへ繋いでいた。
なかでは4番が特に、儚げに消えゆく楽器の音と相まってごく自然なルバートを生み出し、憂いを見事に表現していたし、左手の伴奏音が細分化されて行くさまなど、なるほどと納得させられるところが多かった。各曲とも音数の多い終結部では、競い合うように我も我もとと弾き飛ばしてしまう演奏が多い昨今だけれど、呼吸やフレーズ感を重んじた丁寧なリュビモフの弾き振りに、曲の原型を見た気がした。
アンコールはシューベルト即興曲変ホ長調。
〔facebookパーソナルページより転載〕