ミハイル・プレトニョフの世界
Mikhail Pletnev – Recital & Concerti@Tokyo Opera City Concert Hall
先週と今週にかけて、プレトニョフの演奏会に3度通ったのであくまでも個人的な感想を備忘録として…
協奏曲の夕べでは東京フィルをバックに前半にスクリャービンのピアノ協奏曲(プレトニョフ編)、後半にラフマニノフのピアノ協奏曲第2番という濃厚なプログラム。スクリャービンのロマンティックなピアノの冒頭部分、音がなんと豊かに会場に飛んでくることか、1番音が飛んでくる場所に座っていたせいもあるかもしれないが、その響きはどこか異質な感じ。まるでマイクが入っているようなボリューム感で、ビロードのような布をまとっているというか、管楽器的な、空気を含んだ音。
彼の演奏ではお決まりの、普通は熱が入るようなところはわざと避けて、でも彼にとって“此処ぞ”というところに倍音を豊かに響かせて色彩濃く、臨場感に溢れる音を紡ぐ。楽器を熟知しているので、打鍵は最小限の動きに凝縮する。
第2楽章のゆらめきはテンポ設定が絶妙なのでその浮遊感はハンパなく、音色の扱いにしても歌い方にしても痒いところに手が届いた演奏。あまり演奏されない曲のせいかプレトニョフ編曲だからか、度々オケが薄すぎて心配になったのだが、あとから聞いたところによると、オリジナルに比べるとすごくオケの音が少ない上に“全体的にオケはピアニッシモで薄く演奏してほしい”と本人からの指示が入ったそう。実際ソロパートが休みに入ると即、腕組みをして手持ち無沙汰な仕草。(こういう人がソリストでは指揮者もさぞやりにくいだろう…)
そして第3楽章の第2テーマ、今から来るよと聴きどころを示してくれるかのように客席に合図する余裕の演奏。その調性間の色合いの違いには鳥肌が立った。
プレトニョフのアレンジで最後の二つの音はオケと共には弾かず、ピアノだけで。低音の鳴らし方、鈍い鐘の音はこのコンチェルトの締めくくりに相応しい、確信に満ちた芸術的な音だった。こういった演奏に触れられる機会が少なくなっているだけに、非常に貴重な時間だった。
ソロは、同じプログラムを渋谷区のさくらホールとオペラシティで連日聴いたので、その違いも交えて…
オペラシティのバッハ:前奏曲とフーガイ短調は天井の高いこのホールならでは、まるで教会でオルガンを聴いていると錯覚するほど豊かな鳴り様で、深い祈りの音楽。本人の集中度も前の晩とはかなりの差があったようだ。曲が進むにつれて楽想がどんどん奥まって行き、息をのむようなピアニッシモが続くので、終わった時は客席の誰も拍手ができないほどだった。
グリーグのソナタでは、どちらの会場でもかなり漠然とした印象で、響きを重視するあまり曲の形がはっきりせず、どこか取り留めもなく進んでいく。2年前にチッコリーニが最後の日本公演で弾いた演奏の新鮮さに比べると、なぜ今この曲を弾くのかが伝わって来ない。それに比べると次のノルウェー民謡による変奏曲形式のバラードは、プレトニョフの目指す重たく暗い世界感とマッチするようで、第7変奏のコラールや次の散文的な変奏、曲尾の深淵な暗さなどは特に説得力が増して、オペラシティでは非常に聴きごたえがあった。打鍵を巧みに操って低音をより低い音程で鳴らし、此処ぞという場面が来ると極限まで拡大・強調する。枠を外して自由になるのでレチタティーヴォのように語り、まるで今そこで生まれた音楽のよう。
後半はモーツァルトソナタを3曲。
ニ長調(K.311)は明るく最初の音にエネルギーを集めるロシア的な奏法を多用し、第2楽章も即興的、刹那的で美しい。ハ短調では短調の内に秘めたくすぶりを精密にコントロールされた打鍵から生み出し、次のヘ長調(K.533)ではもはや長調や短調という次元を超えて、、、第2楽章でまたもやその瞬間がやってきた。今までに聴いたことのない、モーツァルトを聴いているとは思えないような現象が起き、まるであの世へ連れて行かれそうな短調のアルペジオにこちらの生気が吸い取られるよう。
そのあとで長調に解決しても、そして明るいはずの第3楽章が来てもその精魂は報われず、あちらの岸から娑婆世界を振り返っているかのようで、モーツァルトを聴いてこんなにぐったり、重い気分になったのは初めてだった。それくらいその世界観が完成されていたということだろう。まんまと策略にハマってしまった。やはりすごい才能!
アンコールのラフマニノフがまた素晴らしく、10月にはオール・ラフマニノフのリサイタルだそうですよ、みなさん!
〔facebookパーソナルページより転載〕