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三宅麻美アート覚書き

【アート覚書き】ルート・ブリュック 蝶の軌跡展

2019年6月22日 by admin

Rut Bryk Touch of a Butterfly@Tokyo Station Gallery

東京駅丸の内北口にあるステーションギャラリーは、オリジナリティー溢れる企画でアートマニアを楽しませてくれるが、フィンランドの女性セラミック・アーティストだったルート・ブリュックの展示もその例に漏れず、チラシを見た時から妙に惹かれていた。
国内では初めての本格的な展示となったブリュックは、洗練された北欧デザインが売りの食器メーカー、アラビア製陶所でアーティストとして働きながら、個性的な陶板アートを作成する。

最初の展示室は今回写真撮影が許されており、深い青や緑、落ち着きのあるピンクやターコイズブルーなどその色合いに惹かれ、またその素朴で歪みのある形に惹かれ、スマートフォンで撮影をしながら何周まわっても飽きずに観続けた。ベネツィアの宮殿やシチリアの教会、カレリアの住居など、釉薬のかかった部分の艶が美しく、枠の風合いとともにステンドグラスを思わせる。ライオンのお腹の部分にさりげなくロバがいたり、3羽の鳥が向き合っていたり、時にユーモラスでメルヘンな題材を独創的なアートに仕上げている。父親が蝶の研究者だったので、様々な色の蝶の作品も目を惹く。

これだけでも十分満足できるものなのだが、その後モザイクのように小さなタイルを組み合わせて創るタイルアートへと変貌する。ブリュッセルの万博やミラノトリエンナーレ芸術祭のために、白、アースカラー、オレンジ、肌色のタイルと立方体の組み合わせでそれぞれの都市を表現したり、インドなどを旅した印象を形にしたイコンがあったり。

そしてさらにタイルが粒子のごとく小さくなり、簡素化していく。当然のごとく抽象画となり、幾何学的な模様が多くなる。
北欧の純粋な美しさと力強い自然を描いたという晩年の作品、《春の雲》《木》《流氷》のタイルアートは、平面上に光と影を織り交ぜながら、ちいさなタイル一つ一つに意味を持たせ、生まれては朽ち果て、現れては消えて行く、万物のはかなさをも感じさせてくれた。

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〔facebookパーソナルページより転載〕

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【アート覚書き】クリムト展とウィーン・モダン展

2019年6月10日 by admin

梅雨入り前の先週、東京都美術館のクリムト展と、国立新美術館のウィーン・モダン展を鑑賞した。

Exhibitions of Gustav Klimt @Tokyo Metropolitan Art Museum and Vienna on the path to modernism @The National Art Center Tokyo

まず都美術館の方は、今年没後100年になるクリムトの油彩画が25点以上も揃うという充実振り。クリムトといえば女性遍歴も多く、裸婦や愛し合う男女をシンボルにした作品が思い浮かぶが、そういった作品に辿り着くまでの経緯が分かるように、時代順にさまざまな作品が並ぶ。7人兄弟の長男で、14歳で工芸美術学校に入学。若い頃は肖像画も多く描いており、21歳で友人や弟と工房を設立し、室内・舞台装飾の分野で活躍。公的機関からの依頼も来るようになり、時の人となるが、次第に伝統への迎合を嫌うようになり、分離派を結成。黄金様式へと向かっていく。金工師だった父親と、同じく美術の道を歩んでいた弟のエルンストを30歳の時になくし、姉と母は鬱病を患っていたらしく、クリムトの絵に現れる不吉で不安定なモチーフに繋がっていく。

私にとって印象的だったのは、金色を使った派手で官能的な作品よりも、養子にしたという姪ヘレーネや、生涯を通してのパートナーだったエミリエ・フレーゲなど身近な女性を描いた肖像画。舞台装飾やポスターなど幅広い作品に取り組んできただけあって、自らデザインしたという額縁も含め、そこにはデザイン性の高さが現れている。モノトーンの色彩、シンプルな構図のなかで、女性らしさを際立たせる。肌の色や衣服の透けるような質感と、首筋や髪の生え際が強調される横顔ならではの視点が、クリムトが抱く女性へのただならぬ関心を表している。

目玉作品として展示されていた、首を取り恍惚の表情をした《ユディト》や、手鏡を持った《ヌーダ・ヴェリタス》は、絵よりも黄金の額縁やシラーの文章に目がいってしまい、期待していた《ベートーヴェン・フリーズ》も、ベートーヴェンの音楽やシラーの思想とはどうも結びつかず、今ひとつピンと来なかった。
ただ、大衆に迎合せずに自分の中の真実を追究する姿勢と行動が、世の中にインパクトを与えたという事実は実感できた気がする。

一方のウィーン・モダン展は、改装中のウィーン・ミュージアムから膨大な数のコレクションが来日。マリア・テレジアの肖像画から始まり、ウィーンの都市の変貌、オットー・ヴァーグナーの建築計画など、絵画だけでなく食器や家具、衣装やアクセサリーに設計図までが所狭しと並び、クリムトにたどり着くまでにかなりの時間がかかった。

こちらのクリムト作品は素描も多くあり、特に初期の寓意絵(ドイツ留学中、何処かの美術館で惹かれて買った絵葉書の《愛》という作品)に思いがけず出会えたのが嬉しかった。絵葉書には男女の姿しか写っていなかったのだが、その上部には2人の運命を示すような不吉な3つの顔があり、額縁は金色と深緑の丁寧な作りになっていた。こちらもやはり透けるような肌と、霧がかった色彩感が印象的。

そしてそのクリムトを尊敬し、クリムトもその才能を認めたエゴン・シーレの作品が素晴らしかった。10代で父親を失い、その現実を受け入れられずに必死で絵を描いたというシーレが、ゴッホの影響を受けて描いた画家の部屋やひまわり、パトロンだったレスラーの肖像画など、落ち着いた暖色系の色合いと、物を捉える線の独特な角度、そして丁寧で迷いのない塗りの線がそのままデザインになって、見事な一体感を成しているのが凄い。枯れたひまわりの背景の白色でさえ、強くなにかを訴えかけてくる。

その他にこの展示で充実していたのが、分離派やウィーン工房のポスターグラフィックで、字体、色合い、デザイン、どれを見ていても飽きないものだった。
また、ウィーンならではの作曲家たち ーー シューベルトの有名な肖像画や実際に使用していた眼鏡、シューベルティアーデの様子を描いたもの、ヨハン・シュトラウスやマーラーの彫像、シェーンベルクの肖像画、シェーンベルクが描いたアルバン・ベルクの肖像画(!)まで展示されているのには驚いた。

ウィーン・モダン展の後、同じ国立新美術館で開催中の日洋展に出品されていた、叔母 並木貴子の《輝きの大地 2019》を観た。これまでもこのシリーズの絵を観てきたけれど、委員賞を受賞しただけあって、黄色と黒のコントラストが効いており、余分なものが削ぎ落とされてきているのが分かる。大胆な筆使いに、気持ちの定まり、叔母の進化、新境地を感じることが出来て、とても嬉しかった。

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【コンサート覚書き】ユリアン・プレガルディエン&エリック・ル・サージュ 〜シューマン 詩と音楽〜

2019年6月9日 by admin

ユリアン・プレガルディエン&エリック・ル・サージュ
〜シューマン 詩と音楽〜
Julian Prégardien & Eric Le Sage 
Schumann & Heine @ Oji Hall, Tokyo

シューマンの珠玉の歌曲とピアノ作品を組み合わせた、魅力的なプログラムに惹かれ、仕事の後に王子ホールへ出掛けた。
前半に作品24のリーダークライスと4つの夜曲、後半は詩人の恋とクライスレリアーナから2曲という、ハイネの詩によるドイツ歌曲と、E.T.A.ホフマンの短編集からインスピレーションを得たピアノ小品によるプログラム。

ルサージュのピアノは、機知に富んでいながら非常に柔軟で、即興性のあるところが以前から好きで何度も聴いているが、同じく歌手の父親を持つドイツ人のテノール プレガルディエンを生で聴くのは初めて。噂には聞いていたものの、冒頭からその真っ直ぐで張りのある声と、曲が盛り上がる度に声量が増していく表現に、自然と引き込まれる。ドイツ語の明瞭さが素晴らしく、以前、響き重視のマティアス・ゲルネの歌唱に疑問を抱いただけに、胸が空くような発音の良さが耳に心地よい。
ルサージュのリート伴奏も呼吸を合わせて空気のように寄り添い、テノールとの一体感を成す。ピアノソロの4つの夜曲では、伴奏に比べてさらに奥行きが増す。中音域の音が開き過ぎて扱いにくそうなスタインウェイを弾ききり、第4曲のテーマの再現では、先ほどのリーダークライスの終末感を彷彿とさせ、シューマン独特の現実離れした世界観を感じさせてくれた。

《詩人の恋》では、最新校訂版の楽譜を用いているからか、フレーズの繰り返し部分で耳馴染みのない装飾が入るのに違和感を覚えたが、この曲集をこの2人の組み合わせで、しかも5月のこの季節に聴けるだけで幸せだった。プレガルディエンは特に、第11曲や第15曲などの台詞調の曲に説得力を発揮する。そして第8曲と第9曲の間に、クライスレリアーナから第1曲のみ(プログラムには第2曲も載っていたが、訂正で1曲のみに)をルサージュが弾いたのだが、この形式は今年生誕200年になるクララ・シューマンが実際に行っていたものらしい。その当時は3曲を挿入したそうだが今回は1曲のみで、しかも歌手を舞台の真ん中に立たせたまま弾くのは集中しないのか、輪をかけて早弾きになり、そのまま詩人の恋の第9曲に突入。気持ち乱れたままリズムが疎かになってしまい、今回のピアノ曲挿入は残念ながら功を奏さなかった。しかしルサージュは、それぞれの曲のキャラクターを見事に弾き分け、それらを繋ぎ、またプレガルディエンに欠けている響きの丸みを存分に補充してくれた。

アンコールは同じくシューマンの”月夜”と”献呈”。前者の儚げな高音と、後者の情熱的で潔い高音の歌い分けが見事だった。

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【コンサート覚書き】地中海のポリフォニー コルシカの男声声楽アンサンブル「タヴァーニャ」

2019年5月7日 by admin

地中海のポリフォニー コルシカの男声声楽アンサンブル「タヴァーニャ」
La folle journée Tokyo 2019
Cor di memoria Tavagna Corsian chant

一昨日のこどもの日、今年のラ・フォル・ジュルネ音楽祭に一公演だけ聴きに出掛けた。
会場は以前にも何度か足を運んだことのある250席ほどの、響きのデッドなホールB5。

今回の「タヴァーニャ」は9人のアカペラアンサンブルで、時間になって舞台上にゾロゾロと出てきたのが、イタリアの街角に居そうな普通のおじさん(失礼な言い方だが、9人中2人は40代で、あとは60才以上と思われる初老の方々ばかり)なので、え? この人達が? と驚いたのだが、始まった途端にその疑いは打ち消された。

最初の2曲は3人のみで歌い、自分の声をコントロールするためか、片手を耳にあて、もう片方の手は隣のメンバーの肩に掛けたりと、身体や顔を寄せ合って歌う。声は地声に近く、ソロパート1人にあとの2人が合いの手を入れ、和声付けをする。
特に冒頭の“タリウ村のパディエッラ”という曲は、世界文化遺産に登録されたコルシカ島の歌謡だそうで、即興的なこぶしを使った張りのある地声がホールに響き渡り、その哀愁に満ちた歌詞の内容もあって、非常に胸に迫るものだった。

3曲目からは全員で円く弧を描いて立ち、お互いの顔を見合いながら、音を聴き合いながら、時に眼くばせをしたり微笑み合ったりしながら歌う。大まかにはバス担当、テノール担当など分かれているが、高い声で歌うメンバーの中には、かなり低い音域まで出せる人もいるようだった。
これだけ近くで歌い合うのだから、メンバー同士のその日の体調なども手に取るように分かるだろう、などと思いを巡らせる。

伝統的な教会歌と世俗歌に加え、現代の作曲家に依頼したものや、自分たちで創作したものもあり、教会歌以外はすべてコルシカ語(イタリア語の方言のように聞こえた)で歌われる。日常生活における喜怒哀楽のみならず、社会に対する意見や主張も歌にしていく、土着の図太さ、たくましさを感じた。

曲間でメンバーの1人が曲の説明をし(通訳付き)、「我々は先祖、祖父の代から受け継ぎ、それを息子や孫の世代に伝えていくので、そこに新しい風を入れることが重要だ」「こうして皆さんの前で披露して、皆さんのその表情から、我々の音楽が皆さんに浸透し、またそこから我々も再びこの音楽に取り組む活力を頂いている」と話すのを聞いて、まさにそれこそが芸術文化の普遍的な価値だろうと、惜しみない拍手を送った。

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【コンサート覚書き】アレクサンドル・クニャーゼフ&ニコライ・ルガンスキー デュオリサイタル

2019年5月1日 by admin

アレクサンドル・クニャーゼフ&ニコライ・ルガンスキー
デュオリサイタル

Alexander Kniazev & Nikolai Lugansky
Duo Recital @ Kioi Hall, Tokyo

先月下旬、ロシア人同士の演奏家によるロシア・プログラムを楽しみに出かけた。

まず耳に飛び込んでくるのがチェロのふくよかな音。弓に相当な圧力をかけるためか、音の威力がすごい。エンドピンが短く、床板が近いので、地面というか大地との一体感を感じるような音。舞台との距離がかなりある2階席右端にいても十二分に表情が伝わってくる。
対するピアノの音はチェロとは正反対で、容積はあっても密度が薄く、スタインウェイピアノが良くないのか、わざと音の芯を捉えていないのか、やりたいことがこちらに伝わってこない。濃密な音作りやフレージング、場面構築をするクニャーゼフ(ノンヴィブラートのストレートな音作りがショスタコーヴィチの音楽に非常にマッチングしており、はたまたロマンティックな第1楽章第2テーマや第3楽章のテーマの出だしなど、その場面毎に合わせた世界観が、第1音から毅然と現れている)に対し、ルガンスキーは音のみならずその音楽にすら乗り遅れているというか、乗り切れていないというか。こちらも理想像がはっきりとあるだけに、とても歯痒い気持ちで聴いていた。

2曲目、フランクのヴァイオリン・ソナタをチェロで聴くのは初めてだったが、その違和感を覚えたのは始めの方だけで、あとは自然に聴き入った。ただヴァイオリンではフッと力を抜くところなどにもクニャーゼフの全身全霊で弾くスタイルが貫かれるため、聞く側としてはやや疲れてしまう。
ルガンスキーはショスタコーヴィチよりもフランクの方が音質的に合っているようで、第2楽章最後の疾走感やチェロとのバランスは見事で、第4楽章の天から降り注ぐようなテーマは美しかった。

ラフマニノフになると、ますますピアノが主体になってくるだけに、前半で感じていた不足感が助長。昨年バッハ無伴奏の時に感嘆したように、チェロがいかに繰り返しを違ったニュアンスで巧みに聴かせても、再現部の調性感を見事に表現しても、それに応え、支え、包み込み、またこちらからも仕掛けて行くピアノがないと感動もできず、全曲暗譜のクニャーゼフに対して、ピアニストの情熱の温度差、物足りなさを感じざるを得なかった。これがもしリヒテルだったなら….!!

アンコールは3曲。ブラームス歌曲編曲がまた、本当に歌を歌っているような抑揚で素晴らしかった。

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【コンサート覚書き】テオドール・クルレンティス&ムジカ・エテルナ初来日

2019年2月13日 by admin

テオドール・クルレンティス&ムジカ・エテルナ初来日
チャイコフスキープログラム

Teodor Currentzis and Music Aeterna – Tchaikovsky Program
@Sumida Triphony Hall

インフルエンザの苦しみがようやく抜け始めてきたので、前から楽しみにしていたオーケストラ ムジカ・エテルナを聴きに行った。世界中で話題騒然、「異端児クルレンティス」「危険な音楽集団」との触れ込みあってか、1800席のすみだトリフォニー大ホールが満席完売。

前半はソリストにパトリツィア・コパチンスカヤを迎えてのヴァイオリン協奏曲で、後半は交響曲第4番。

まず音に色がある。オーケストラだから様々な楽器の色があって当然、というレベルではない。弦楽四重奏や少人数のアンサンブルでのみ実現するような、調性や和声の変化、ニュアンスを大編成のオーケストラで緻密に再現している。
そしてなんと言っても歌い回しのしなやかさ。フレーズの中での音のデクラメーション(増量と減衰)を細部に渡り、また曲全体にも渡ってコントロールしているので、通常オーケストラでは難しい絶妙なルバートと抑揚、切れ味を生み出している。木管楽器の表現力は特筆すべきで、特にクラリネットとフルートは素晴らしい腕前。

ソリストのコパチンスカヤは、噂通り舞台上でスリッパのような靴を脱ぎ、裸足で演奏。終始小鳥がさえずっているようなヴァイオリンで、即興的ではあるけれど極端に音量を落とし過ぎたり、音としての美しさがなく、豊かな響きと表現力を持つオーケストラとのバランスが非常に悪い。フラジオレットやグリッサンドの滑りなど際立った技巧を持っていて、現代曲やジプシー的な民族音楽などには向いているのだろう。稀有で個性的な存在だというのはわかるが、拍感も歌い出しも曖昧で、メロディーラインにチャイコフスキーらしい哀愁、優雅さがほとんど感じられず、大変残念だった。

休憩中、ヴァイオリンとヴィオラ、木管楽器の椅子が全て舞台袖に下げられ、後半は交響曲の間中なんと立ちっぱなし(!)で演奏。それが功を奏し、デュナーミクの幅を与え、音楽に身体全体から生まれる自然な波動を与える。指揮者と同じ目線で演奏することで、当然一体感も増す。金管楽器も吹くときは立奏するので、それに対応するようにだろうか、低弦の多さが目立つなと思って数えてみたら、 コントラバス9本、チェロ14本、ヴィオラ14本だった。(ちなみに1stヴァイオリンは17本、 2ndヴァイオリンが15本)

クルレンティス自身が言うように、「家族のような」団員たちと長時間かけて、入念に徹底した準備をし、これまで弾かれてきた伝統や全体像を把握した上で彼の狙いやこだわりを際立たせるので、説得力がある。久々にオーケストラの演奏に魅せられ、引き込まれた。

終演後、通常は指揮者のみがお辞儀するところを、団員全員でお辞儀するのはとても清々しく、そうするに相応しい演奏だった。

アンコールに、2日後のプログラムの演目である 幻想序曲《ロメオとジュリエット》までそのまま立奏するおまけ付き。15時に始まった演奏会が終わったのは18時近かった。

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【コンサート覚書き】ホアキン・アチュカロ ピアノリサイタル

2019年1月23日 by admin
Joaquin Achucarro Piano Recital @ Tokyo Bunka Kaikan Recital Hall
一昨日の晩、86歳のアチュカロを聴きに東京文化会館へ。

先週はマスタークラスを聴講し、純粋に、ひたすら目の前の音楽に感動しながら、その喜びを共有する、お人柄溢れるレッスンをなさるのに大いに共感したところだったので、楽しみに出掛けた。

前半はショパン24の前奏曲集。一曲ずつ、そして一音ずつ愛おしみながら、慈しみながらの演奏。特に4番、11番、13番、15番などスローな曲での音のグラデーションが素晴らしく、まさにその場所に欲しい音を紡ぎ出す。かと思うと18番などの劇的で鮮烈な語り口もあり、弾き手の想いに満ちたショパンだった。

そしてアラウンド・グラナダと題された後半。アルベニス、ドビュッシー、ファリャの小品を繋ぎ、アンダルシア幻想曲で締めくくる充実のプログラム。スペイン・バスク地方出身のアチュカロの奏でるスペインものは、思ったよりもリズムが厳格で、重々しい。それでもやはりショパンとは違い、余分な肩の力が抜けた自然な打鍵から生み出される音は非常に立体感があり、光と陰、艶やかなリズムと色彩を添え、その音楽はまるで身体の一部であるかのような印象を与えてくれた。

アンコールはグリーグの抒情小曲集から夜想曲、ファリャの火祭りの踊り、ショパン夜想曲。

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【アート覚書き】ロシア絵画の至宝展&ロマンティック・ロシア展

2019年1月16日 by admin

ロシア絵画の至宝展&ロマンティック・ロシア展
Exhibitions of Russian painting @ Tokyo Fuji Art Museum and Bunkamura Museum

5年前、サンクトペテルブルクを訪れた時に行きそびれていたロシア美術館所蔵の展示というので、先月の休日に楽しみに八王子の東京富士美術館へ出かけた。

暗い色合いのものが多く、ともすれば陰鬱に見えがちなロシア絵画だが、そのほの暗さなかにともし火があり、人々の語らいや驚き、そして生きる糧が描かれている。
レヴィタンやシーシキンの風景画にある広大な空や大地、母なる河、奥深い森は、画家自身がインスピレーションを受けた場所そのものであり、アイヴァゾフスキーの海洋画は、クリミア半島の眩いばかりの陽の光とその光に包まれて霞む帆船が輝いている。光の放射、広がりに画家の生命力を感じざるを得ない。

そしてなんと言ってもイリヤ・レーピンの《サトコ》は、時間を忘れて観ていられる作品で、目当てに行った甲斐があるというもの。
水中の王国での商人が花嫁を選ぶという、ノヴゴロドの叙事詩の一場面だが、まずその大きさに圧倒される。水の中で輝く華やいだ人魚の行列、忠実に描かれた魚や甲殻類の一つ一つ、前に立つとまるで宝石箱をのぞくようなワクワク感に包まれる。そして視点は画家の想いが注がれた主人公サトコヘ。その想いは画家の愛国心の表れであり、皇帝の買い上げになったというのも頷ける。
「美は好みの問題だが、私にとって、美とは真実のなかにある」 とのレーピンの言葉は、裸足のトルストイを描いた絵といい、絵画だけにとどまらず音楽においてもそうあるべきと強く思う。

そして今月になって出掛けたBunkamuraのロマンティック・ロシア展は、モスクワ・トレチャコフ美術館所蔵の作品展示で、私も10年振りにクラムスコイの《忘れえぬ女》を観た。

レヴィタンの作品は富士美術館よりも一段と素晴らしく《森の小花と忘れな草》や《樫の木》など、さりげなく飾られた名もない花に愛おしさ、そして見返りを求めずその場に立ち続け与え続ける樹木への恩恵が表れている。
クラムスコイが生涯に一点だけの花を描いた作品という《花瓶のフロックス》は、花の赤味と白味、葉の薄い緑、花瓶の照りのある濃紺の色の配置といい、構図といい、目を奪われた。

今回のレーピンは二点とも肖像画で、師であり友であったクラムスコイと、ロシア音楽界に多大な功績を残したアントン・ルビンシテイン。座り方や腕の組み方など、それぞれの佇まいに真実を追求する姿勢が伝わる。クラムスコイの目線、ルビンシテインのくつろぎながらも衰えない風格、それは背景の色使いにも表れる。前者はグレーに近い緑、後者は赤茶色と描き分け、肖像画においてさえも高い芸術性を感じさせる。

そして、二度目の《忘れえぬ女》との対面は、初回に感じたよりもより細部への筆使いに関心が向いた。濃紺色の持つ落ち着きと高貴な存在感、ビロードや毛皮の質感の表現、背景の暖かな白色、その色とはまた違う肌色の透明感、眉毛やまつ毛、眼孔の濃さが特徴的な目線を印象付ける。

観る人にその精神性や奥深い魅力を与えてくれるロシア絵画を堪能した2日だった。

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【コンサート覚書き】エリソ・ヴィルサラーゼ ピアノリサイタル@フィリアホール

2018年11月28日 by admin
Just One World Series No.19

Elisso Virsaladze Piano Recital at Philia Hall

シューマンを良く弾いていた芸大時代、彼女の弾くLPを何度となく聴き、4年次の夏に霧島音楽祭でマスタークラスをするというので即申し込んだが、急遽来られなくなって別の先生に変更になると連絡を受け、私もキャンセルしたという思い出があるヴィルサラーゼ。その後留学中にイタリアで演奏会に行ったり、パリで念願のレッスンも受けた。細部の細部までへの徹底的なこだわりと、そのグローブのような大きな手が印象的だった。

今年のリサイタルはお得意のシューマンを前半、後半にショパンというプログラム。

作品4のインテルメッツォは彼女自身初めて弾くそうだが、出だしからこちらの耳を鷲掴みにする。直前に行われた浜松国際コンクール審査での鬱憤を晴らすかのような潔さ、思い切りの良さ、大胆でいて緻密な音楽造りは健在で、厚みのある、入り組んだテクスチュアを見事に弾き分け、まさに”音で語り抜く”雄弁さを突き付けられる。曲集ならではの繋ぎがまた素晴らしく、シューマンに不可欠な切り替え、あるいはきっかけを与える上手さが随所に光る。

次のダヴィッド同盟舞曲集。第4曲のたゆたうようなシンコペーションの妙技、
第6曲のバスの色どり豊かな音程感、
第7曲の語りでは聴き手を昔の思い出に優しくいざない、美しいロ長調の第17曲からハ長調の属和音へ移行したときには、ああもう終わってしまうのかと、30分強があっという間で、この曲集の持つ循環性にあらためて魅せられた。

後半のショパンは、バラード2番に始まり、ワルツやノクターンを調性でうまく繋いでまとめ上げたもの。左右のズラしや独特の拍感に違和感を覚えたところもあるが、ここまでくるとすでに個性の領域。ワルツ第9番から第8番へ、そして同7番からノクターン第7番へ、そのあとに同8番へとその繋ぎは絶妙で、見事に一つのサイクルを描いていた。前半のシューマンとの関連性。一晩のプログラムとしての一貫性。こういったプログラミングができるピアニストが今世界に何人いるだろうか。受け継いでいく必要性とともに、まだまだ弾き続けて欲しいピア二ストだと心から感じた。

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【コンサート覚書き】アレクセイ・リュビモフ エラールを弾く

2018年11月4日 by admin

アレクセイ・リュビモフ
エラールを弾く
Alexei Lubimov plays Erard@Suntory Hall Blue Rose

ロシアンピアニズムの中でも異彩を放つリュビモフの演奏は興味深く、これまでにも何回か聴いてきたが、ピリオド楽器は初めて。しかもサントリーホール所蔵、1867年製全盛期のエラールを弾くというので、楽しみに駆けつけた。

なんと本リサイタルの前に、第1回ピリオド楽器によるショパン国際コンクール入賞者の川口成彦さんの演奏とトーク、リュビモフとの連弾まで追加されるという大サービス振り。

この9月に行われた同コンクールにドイツ留学中の弟子が参加していたので、ネット配信されるオンライン中継は見ていたものの、普段ピリオド楽器を聴く機会は身近にないので、まず音そのものに集中して聴く。その聴く側の姿勢には、まさに聞き耳をたて、古い楽器だから多少の聴きにくさは受け入れる寛容があり、弾く側もきっと、良いも悪いもその楽器の特性、限界をそのまま披露できる気楽さがあるように思う。もちろん責任も十二分にあるとは思うけれど。

福沢諭吉の孫が所有していたこともあるというそのエラールピアノの音は、現代のピアノに比べてハンマーの打音が目立ち、その後に残る響きは素朴で縦には伸びず、余韻はあるが、狭い範囲で波動が伝わっていくようなイメージ。
やはり音の減衰が早いので、音楽が向かって行くときはおのずと切迫感を強いられるのだろう。逆に引いて行くときは時間をかけると、そこはかとない寂寥感を演出できる。同じフレーズを繰り返すときに装飾を入れたりという、当時は当然のごとく奏者に一任されていた表現が堂々とできるのは、ピリオド楽器を弾く特権のように感じられた。我々が現代のピアノを弾く時にも、そのくらいの自由があっても良いのにと思う。

弾き手がリュビモフに替わると、途端に色彩が増し、奥行きが出る。
ベートーヴェンの作品109は、出だしからしてアルペジオによる響きの溜まりが非常に新鮮。第3楽章のテーマの繰り返しに妙技を感じ、第2変奏などは、モダンピアノではその飛翔感を表現するのに打鍵に細心の注意を払うのだが、このピアノではいとも簡単に理想の音が出せてしまえるようだ。
さらにドビュッシーの前奏曲になると、リュビモフはモダンピアノを弾く時より断然自由で、創造的だった。スケールの大きな曲ではやはり、モダンピアノの優越性を感じざるを得なかったが、ピツィカートやバスの原始的な響きを随所に散りばめ、機械的な運きとそうでない旋律線の対比、左右のずらしやアルペジオ、音程感、響きの濃淡、色彩の移ろいなど、イメージする明確な音像を、その知的な打鍵のコントロールで自在にかたち作っていた。

後半のショパン バラード全曲では、当時の風習にならい、一曲毎その調性へ導くためのプレリューディングとして、1番の前に作品28の前奏曲からハ短調、2番の前には前奏曲ヘ長調、3番の前には遺作の前奏曲変イ長調、4番の前には前奏曲へ短調を弾いてアタッカでバラードへ繋いでいた。
なかでは4番が特に、儚げに消えゆく楽器の音と相まってごく自然なルバートを生み出し、憂いを見事に表現していたし、左手の伴奏音が細分化されて行くさまなど、なるほどと納得させられるところが多かった。各曲とも音数の多い終結部では、競い合うように我も我もとと弾き飛ばしてしまう演奏が多い昨今だけれど、呼吸やフレーズ感を重んじた丁寧なリュビモフの弾き振りに、曲の原型を見た気がした。

アンコールはシューベルト即興曲変ホ長調。

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