千葉県佐倉市にあり、これまでに3回ほど訪れているお気に入りの川村美術館。立地は良くないけれど広々とした庭園が気持ちよく、建物も天井が高く開放感があって贅沢な造りになっている。
それがなんと経営難から今年で閉館するというショッキングなニュースが数ヶ月前に流れ(皮肉なことにその後来場者が急に増えて閉館は3月末に延長されたのだが)、もう一度じっくりと常設展示を観なければと先週再訪した。
入ってすぐのラトゥール『花瓶の花』は、
漆黒の背景に薔薇やカーネーションの花弁が立体的に浮かび上がる。影は影のまま描くことで、照らされた本体の臨場感がより伝わってくる。
シダネルの『薔薇と藤のある家』は、
よく見ると細かい筆遣いからなる点描画だが、絵から少し離れただけでそれらの色の混ざり合いが起きて、暖かみのある緑色とピンク色のグラデーションが目に優しく心和む。彼の作品は必ずどこかに明かりが灯っていて、団欒の温かさを感じる。
おなじみのモネ『睡蓮』。
先日倉敷・大原美術館で観た睡蓮は赤よりも黄色の花弁が印象的だったが、ここは右手に青い睡蓮、左手前に濃い紅の睡蓮が描かれており、水面に映る空の色が黄色味がかった水色。奥の方は薄ら赤く、夕暮れ時だというのがわかる。柳の紫色も柔らかく池に映り込んでいる。このモネのその場にいざなうような空気感は誰も真似できないものだと思う。
ルノワールの『水浴する女』では、肌の艶と透明感が際立っているが、近くに展示されているボナール『化粧室の裸婦』では、女性の肌や曲線よりも、壁面の柄模様や左下の大理石の色味に目がいく。
ブランクーシのブロンズ彫刻『眠れるミューズⅡ』は、金色に塗られた面長な女性の頭部が、絶妙な角度で木の台座に横たえてある。台座にも彫りが施されていて髪の毛の彫りとの関連性があり、全体としての調和がある。
ピカソの、同じ題材による、同じグレーを色調にした2作品が並べて展示されている。
1927年に描かれた左側の『肘掛け椅子に座る女』はいわゆるキュビズムの絵。1954年に描かれた右側の『シルヴェット』は手や腕こそ直線的だが、彫りの深い顔立ちと多量な髪をポニーテールで束ねている様子を野太い線で描き、まだあどけないが女性らしさのある上半身の膨らみを丁寧に表している。ピカソはこのモデルをたいそう可愛がっていたそう。
藤田嗣治の『アンナ・ド・ノアイユの肖像』は以前観た時もとても印象的な作品だった。
藤田らしい白色の背景に、金色で透け感のあるワンピースを着た細身の女性が繊細な筆遣いで描かれている。
比較的大きなサイズの絵なのでその背景の占める割合が多く、彼がこだわった白色がより一層この絵を際立たせている。
シャガールの『ダヴィデ王の夢』。
横幅は2メートル以上あるだろうか、赤青黄紫の色味が画面一杯に表され、作品にこちらが包み込まれるような温かみを感じる。右横に描かれたダヴィデ王の夢に加え、シャガールお馴染みのモチーフが勢揃い。太陽や魚、らば、抱き合う男女、ヴァイオリンやチェロなどの楽器、エッフェル塔、ピエロ、踊る人々、働く人々、語らう人々… シャガールは沢山観てきたけれど、彼の色彩や魅力をこれ一枚で存分に味わうことのできる作品だと思う。
ユトリロの『メクス村』。
村の工場や建物と人々が通りがかるさまが描かれたこの作品は、背景のどんよりとした冬の空とは裏腹に、何かユトリロらしからぬ活気が感じられる。クリスマス前の楽しげな様子なのかと思いきやマーケットは描かれてなく、雪化粧をした建物の様子を厚みを持たせた白で鮮やかに描いている。そしてよく見るとvive la france の文字が壁にあり、1914.12.24. の日付入りのポスターが貼ってある。なるほど第一次大戦が始まったばかりで、建物の上にフランス国旗が掲げられている。その国旗の赤色や人々の服装の赤い差し色、人々の赤ら顔が画面に活気を与え、街の人の士気の高まりのみならず、ユトリロ本人の興奮と狙いが感じられる。
マックス・エルンスト『石化せる森』は、
全体が暗い黒緑色で覆われている。上に浮かぶ赤い丸は太陽だろう。だけれど中心は穴が空いている。何かの警告なのか?環境汚染で息のできなくなった森の木々が、絵の具を固めた塊を用いて白骨化しているような、地球が終末を迎えたかのような、考えさせられる作品。
そして何といっても
『ロスコ・ルーム』。
この部屋だけでも残して欲しい。
この部屋が日本にあることが誇らしい。
初めてロスコに出会ったのもここ川村美術館。
企画展だったので、大きな空間全てにロスコの作品が掛けられていて、その圧倒的なエネルギーに衝撃を受けた。
この部屋には同系統の色味7枚の作品『シーグラム壁画』が展示してあり、作品保護のために明かりがとても暗く、しかも湿度がある。それが余計に厳かな雰囲気を作り上げている。
絵の中に大きな四角い枠があり、それが良く見えるものもあれば、背景と同化しているものもある。枠の大きさや太さもそれぞれ違っていて、それは自分の中の観念のような、周りとの境界線のような、自分の中の限界線のような。心を封じ込めようとする、社会で生きる上で必要な体裁のような。その時その瞬間の自分の心理状態を表しているのだろうか、ある時は枠の方が大きかったり、枠が歪んでいたり、またある時は枠の中の自分が前面に膨張してくるように見えたり、またある時は枠の向こうが透けて見えるような感覚になったり。
何しろこの枠の中を埋め尽くす塗りにパワーを感じ、それは人として生きていくための声・叫びであり、血であり肉であり、そこから溢れた情熱に思えてならない。だからこそ観るたびに毎回心打たれるのだと思う。
ほかフランク・ステラやジョゼフ・コーネル、サイ・トゥオンブリー、エルズワース・ケリーなど現代美術も多くある。
何とかこの場所を維持していただきたいと心から願っています🙏🙏🙏